tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第5回です。今回は「過去を生きるのではなく、過去を通して現在を生きる」と題して、過去と現在の関係について考えていきます。
過去は振り返るなといわれることもありますが、今を心地よくしてくれる、いい思い出は振り返ってもいいのではないでしょうか。それは過去に生きることではなく、現在に生きながら過去を振り返っているからです。
過去は振り返ることはできても、過去に生きることはできません。今の自分は過去にいるのではなく、現在にいます。そうであれば、今の自分ができるのは、今この現在という場所を生きることに尽きるのでしょう。過去を振り返るのと、過去を生きるのとはまったく違います。過去を変えることはできません。それはいい思い出も、そうでない思い出も、どんな思い出であったとしても過去の事実を変えることはできないのです。しかし、たったひとつだけ変えることができるものがあります。それは過去に起きた事実に対する解釈です。解釈を変えることは、今現在を生きる自分が唯一できることなのです。
思ひ出は答をくれず逆光の家族写真に家族はわらふ 森井マスミ『まるで世界の終りみたいな』
思い出は思い出として振り返ることができます。楽しい、うれしい思い出であれば、何度思い出しても、今の自分を心地よくさせてくれるでしょう。しかし、本来思い出という事実自体にいいも悪いもありません。その思い出に対して、自分がどのように感じるか、どのように捉えるかということが大切なのです。
過去の事実はもうすでに起きてしまったこととして、変えることはできません。まさに「思ひ出は答をくれず」なのです。そうであれば「家族写真に家族はわらふ」から、今の自分がどのようにそのときの過去の事実を捉えるのか、ということが今を豊かに生きるためには重要になってくるでしょう。答えは過去の自分が出すのではなく、今の自分が出せばいいのです。そう考えると少し気が楽になってきませんか。過去の事実が答えを出すのではなく、今の自分が答えをどのようにも出せるとなれば、過去の事実はそれほど重要ではなくなってきます。それよりも大切なことは、過去の事実をどう捉えるかなのです。捉え方次第で、あれほど嫌っていた過去が、途端に必要な出来事だったと感じられることがあるのではないでしょうか。
クラスメイトの前で話せなくなる
私は、中学二年生のとき、クラスメイトの前で話すことができなくなりました。授業中、当てられて話そうとするとどうしても声が震えてしまうようになったのです。それまでは、授業中当てられてもまったく問題なく発言できていましたし、むしろ回答できることを喜びとして、得意げに答えていた方だったのです。それがあるきっかけで、話せなくなってしまったのです。何でこれまでうまく話せていたのに、人前で声が震えて話せなくなってしまったのだろう。どうすれば、元の通りに普通に話すことができるのだろうと、そのときは本当に悩みました。しかし、何も改善できず、授業中人前で声が震える人間として、クラスメイトから見られる存在になっていったのです。本当に悔しかったし、つらかったです。世界がなくなればいいのにと思いました。
人前で話せないというのは、高校にいっても続きます。中学二年生で完全に自分に対して自信を失ってしまっていたのですね。高校三年間を何とかやり過ごし、逃げるように大学に行くわけですが、やはり自信のなさはずっと続いていました。大学では、中学や高校ほど授業で当てられるということはなくなりましたが、時折ある発表やテストではやはり同じように嫌な思いを抱えながら過ごしていました。
仕事についてからも同じでした。とにかく苦手なまま何となくその場をやり過ごすようになっていました。
今現在の私は、少し冷静に捉えられるようになり、人前で緊張することはありますが、それもそれかと捉えられるようになっています。声が震えることもあるよねと、ある意味割り切って捉えるようになりました。そのように考えられると途端に気持ちが楽になったのです。うまく話さないといけない、うまく話せて当然だと思っていたことが、逆にプレッシャーになっていたのでしょう。
今、中学二年生のときのこの出来事を振り返って思うのは、この出来事は自分の人生にとって必要だったということです。もし、人前で声が震えることなくそのまま順調に生活できていたとしたら、違った人生が待っていたかもしれません。私自身何度その違った人生を想像し、そうだったらよかったのにと考えたものです。しかし、今の自分になってやっと思います。あのときの事実は変えられないけど、その事実があったからこそ今の自分があるのだと思えるようになりました。あの出来事がなければ、青年海外協力隊にも入ってなかっただろうし、協力隊時代の仲間に出会うこともなかったでしょう。また帰国後、今の妻と出会って結婚することもなかっただろうとも思います。そして、今このように短歌に触れることもなかったかもしれません。
あのとき悩んだからこそ、その延長線上に、その後の自分の人生が展開していき、今の自分があるのだと思います。悩んだからこそ、今の自分の人生がつくられてきたのだと考えると、あのときの悩みは決して無駄な出来事ではなかったといえるのです。それが過去の事実は変えられないけど、過去の事実の捉え方は変えることができる、まさにそれなのだと感じます。
現在からどのように過去を解釈するか
過去を詠った短歌は数多くあります。何首か見ていきたいと思います。
過ぎた日が遠ざかるほどその日したグータッチからまばゆい光 岡野大嗣『うれしい近況』
振り返る日々のひとつに、このような日があるなんて、とても素敵なことですね。グータッチの具体的な輝きが今も思い出として光っているようです。過ぎた日が遠ざかるほど、グータッチした日は過去へ過去へといくわけですが、いつでもいつまでもグータッチした日のことを、まるでついさっきのことのように思い出せるのだと思います。そしてそれは、時が経つほどより一層輝いていくのでしょう。
「モノよりも経験にお金を使うといい」といわれる理由がここにあるのでしょう。グータッチにお金は必要ありませんが、いつまでも輝き続けるかけがえのない一日になっていると感じます。
アルバムに埃ひそけし開くたびそこにある過去からのまなざし 小島ゆかり『憂春』
アルバムに綴じられた写真の数々。そこにあるのは、過去の時間そのものです。「過去からのまなざし」は、今の自分に一体何を投げかけているのでしょうか。「過去からのまなざし」をどう解釈するのかは、今の自分以外にありません。
このアルバムに収められた同じ写真を見るとしても、一年前に見たときと、今見たときでは、感じ方が変わっているのではないでしょうか。それがまさに過去のこの写真の瞬間に対する解釈なのです。その解釈を通して、今自分がどう生きるべきか。それを改めて、今の自分に問いかけてみたいものです。
立つた日があつて歩いた日があつて 父は夏雲のやうにありたし 大松達知『ゆりかごのうた』
自分の子どもが初めて立った日、初めて歩いた日を詠っています。子育てを送る毎日において、それらの日は特別な意味をもつ日でしょう。過去のそれら特別な日を振り返ったとき、やはりそれらの日は輝いているのです。その輝かしい日々においても、そしてそれらの日を振り返っている今においても、「父」は「夏雲のやうにありたし」と感じています。
手取り足取り逐一何かを教えるよりも、夏雲のようにどんと腰を据えて子を見守っている、そんな存在としてありたいと考えているのだと思います。見守っているだけでも、子は立つし、子は歩きはじめるのです。子の未来には今後も幾多の試練が訪れるかもしれません。そのときも父は夏雲としてあり続けるのでしょう。
生くるとは思い出積むこと捨てること抜かれし草が夕べを匂う 大下一真『即今』
生きていけば、日々思い出が積み重なっていきます。何度も振り返りたい思い出もあれば、些細な思い出や、もう二度と振り返りたくない思い出もあるでしょう。この歌は、そんな思い出が日々増えていく中で、積み上げっぱなしでは駄目だよといってくれているようです。「生くるとは思い出積むこと捨てること」がまさにそれであり、「捨てること」がキーポイントになっています。
夕べに抜かれた草の匂いから、思い出へ意識が流れていく様子が窺えますが、捨てることによって生まれる新たな余白こそが、今を見つめて生きていく上で大切なのではないでしょうか。
過去の事実は変えられませんが、過去の事実に対する解釈は変えられる。場合によっては、解釈を超えて「捨てること」が必要なのかもしれません。
線路沿い歩けば遠い足音に日付を持たない思い出がある 鈴木晴香『夜にあやまってくれ』
こちらも思い出の歌です。アルバムの写真などは、日付をもった思い出に当たるでしょう。しかし、ここでは「日付を持たない思い出」が詠われています。線路沿いを歩いているときに聞こえてくる足音。それは自分の足音かもしれませんし、どこからともなく聞こえてくる誰かの、あるいは記憶の底からの足音かもしれません。そのときに浮かんできた思い出が「日付を持たない思い出」なのでしょう。日付をもたないがゆえに特定の思い出というよりも、思い出の多くに共通するような郷愁を伴った思い出のようなイメージでしょうか。特定日の具体的な映像や場面というよりも、思い出を思い出たらしめている印象のような、エッセンスのようなものが「日付を持たない思い出」なのではないでしょうか。
ですから、「日付を持たない思い出」はいつでも振り返ることができますし、いつでもいい思い出として今の自分の心を満たしてくれることが可能でしょう。自由自在といった感じがしてきます。
「日付を持たない思い出」もまた解釈次第です。そのような思い出そのものとも、思い出のエッセンスともとれるような思い出が自分にはあると解釈することで、今の自分が満たされるといった感じでしょうか。素敵な一首ですね。
今生に残せるものの少なくてそのときどきの歩幅あし音 勺禰子『月に射されたままのからだで』
この歌は直接、思い出や過去といった言葉は使われていませんが、「今生」とあり、人生の瞬間瞬間を感じさせてくれる一首です。今現在から過去を振り返ったとして、「今生に残せるものの少なくて」と感じているのでしょう。また自分が死ぬときを想像して、自分のこれからの未来の歩みを思い描いた場合も、やはり「今生に残せるものの少なくて」と感じているのでしょう。つまり、今生と来世という立場から見たとき、大きな宇宙、大きな生命といった壮大な存在の前では、自分が今生に残せるものの少なさを感じているのだと思います。
しかし、少ないながらも確かに「そのときどきの歩幅あし音」は、生きている瞬間瞬間に刻まれるのです。それは、大いなる存在の前においては、とても小さなものかもしれません。しかし、少なかったとしても残せるものがあるのは間違いなく、その小さな歩幅あし音を少し誇らしく感じているようにも思われます。その歩幅あし音は、今この瞬間に自分自身が振り返ることもできますし、自分の死後、別の誰かが振り返ることもあるでしょう。生きてきた証というのは小さく感じられるかもしれませんが、確実のその場を刻んでいく存在であると考えることができれば、今現在を生きることに少し自信が湧いてこないでしょうか。
ぬかるんだ土に足跡置いてゆく時折足を取られながらも 香川ヒサ『The Blue』
ぬかるんだ道に靴跡続きつつところどころにすべつた跡あり 香川ヒサ『The Blue』
この歌々も、直接過去や思い出といったことをいっているわけではありません。しかし、どうしても人生の過去を振り返っている場面に重ねて読みたくなってしまう歌です。
「ぬかるんだ土に足跡置いてゆく」「ぬかるんだ道に靴跡続きつつ」はどちらも言葉通りに採れば、ぬかるんだ道を歩いてきたというだけになってしまいます。しかし、このぬかるみは比喩としてのぬかるんだ道であり、つまり人生そのものなのでしょう。「時折足を取られながら」「ところどころにすべった跡」を残しながら、人生という長い道を歩んできた状況を指しているのだと思います。
人生は平坦な道ではなく、むしろうまくいかないと感じることの方が多いでしょう。足を取られ、すべってきたのは、まさに人生転びながらここまでやってきたことの証なのでしょう。そのように冷静に過去のときどきを振り返ることができるということ自体、人生を長く生きてきて色々と経験してきたことそのものを表しているでしょう。足を取られ、すべってきた過去は、いってみればあまり振り返りたくない過去なのかもしれません。しかし、その過去があるから今の状況があるのであり、振り返ってみればそのような過去も自分にとっては必要だったと解釈することもできるのではないでしょうか。
人生という長い道において、平坦な道を望みながらも、振り返ってみれば平坦な道でなかったからこそ、人生が起伏に富んで面白かったということもあるでしょう。すべって転んでいる渦中はとてもつらいですが、いつかはそのつらい瞬間を抜けることができるでしょうし、そのつらい過去であったとしても、過去をいいように解釈するときがきっとくると信じて、今現在を見つめて生きていきたいと改めて感じさせてくれる歌々です。

