tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第2回です。時間の捉え方はさまざまありますが、「時間の最先端を歩く」と題して、時間の最先端を生きていくことについて見ていきます。
失敗を極度に怖れる人がいます。昔の自分がまさにそうでした。
授業では、先生に数学の問題の解き方を当てられれば「間違った答えをしてはいけない」と妙にビクビクしていました。職場では、指示されたやり方に疑問をもちながらも、自分流にアレンジしてうまくいかなかったら後々困ると考え、常に上司の指示通りに動いていました。ガチガチな生き方ですね。
今考えると、不要なほどの労力をかけてしまっていたと気づかされます。仮に間違ったり、うまくいかなかったりしても、それはそれでひとつの経験として蓄積されていきますし、場合よっては後々話のネタにもなるでしょう。しかし、以前はそのようは考えられず、「失敗しないように」が最優先になっていました。今でも失敗をまったく怖れていないわけではありませんが、以前に比べると、失敗してもいいじゃないかと思える自分がいることは確かです。
考えに余裕が出てきたきっかけのひとつとして、次の一首に出会ったことはとても大きいです。この歌に触れてから、随分と気持ちが楽になりました。
人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天 永田紅『日輪』
この世に命を与えられた以上、好むと好まざるとにかかわらず、生きていかなければなりません。しかし、生きるというのはそう簡単ではありません。
生きていればいいこともありますが、悪いことも起こります。生きづらいと感じることもあるでしょう。悩みや不安など考え始めればきりがありません。生きづらさを感じていた中、「人はみな馴れぬ齢を生きている」というフレーズに出会ったとき、妙に納得したのです。
生きる瞬間は、過去でも未来でもありません。今現在を生きるしかないのですが、その現在はマニュアルや解法が用意された現在ではなく、馴れていない現在です。
人が生きているのは、時間の先端、つまり最前線です。生まれてから死ぬまでそれは変わることはありません。今の年齢を生きるのは、誰にとっても、今この瞬間が初めてなのです。常に馴れない先端を生きているのだから、少しくらい失敗したっていいじゃないか、うまくいかなくたっていいじゃないかと思えるようになりました。失敗することが特別なことではなく、失敗するのが当たり前という前提でいれば、心が少し軽くならないでしょうか。
常に時間の最先端を生きること、それは「馴れぬ齢を生きている」ことにほかなりません。ですから、生きづらいのはある意味当たり前ともいえるでしょう。そう思えば、授業でうまく発言できないことも、仕事でのうまくいかない進め方や段取りミスも、馴れていない先端を生きている証拠そのものだと余裕をもって受け流すことができます。この上句は、生きづらいと感じる心に対して何ともやさしく語りかけてくれるではありませんか。
下句で描かれる場面には、曇り空にユリカモメが飛んでいます。それは自由とも不自由とも受けとれる光景かもしれません。その姿は、馴れぬ齢を生きる自分の姿に重なるところもあるでしょう。
生きていくのがつらいと感じるとき、この歌はきっと心の拠りどころとなると思いますし、私自身が繰り返し愛唱してきました。生きることに対する具体的で直接的な解決法が提示されるわけではありませんが、生きることに対する視野を存分に広げてくれる一首だと思います。
私自身、どうしてうまくいかないんだろうと思うときはありますし、仕事で目に見える失敗をしたこともあります。なぜうまくいかないんだろうと、自分を責めてしまいがちですが、そういうときこそこの歌を思い出す絶好の場面です。
「人はみな馴れぬ齢を生きている」と声に出すだけでふっと心が軽くなります。馴れないところを生きているから、まあうまくいかないこともあるよねと思えるのです。失敗の経験を次に活かすため反省するのはかまいませんが、責めすぎる必要はまったくありません。
きらりきらりストップウォッチの螺子を巻く生放送だよじんせいは 北山あさひ『ヒューマン・ライツ』
最先端を生きる以上、誰しも最先端においては生きる初心者なのです。人生にリハーサルはありません。一発勝負、カットなし、撮り直しなしの「生放送」なのです。常に時間の最先端にいることは、生放送の人生そのものです。うまくいくときもあれば、うまくいかないときもある。でも、うまくいかなかった場面をすべてカットしてしまったら、人生は途端に味気ないものになってしまうのかもしれません。生放送の臨場感が、人生を濃密にすることは間違いないでしょう。
生まれてから死ぬまで、人生は生放送。どうせなら振り切って、この生放送を楽しんでやるくらいの気持ちが湧いてくると最高ですね。
現時点の自分が一番若い
さて、時間の最先端のことを考えていると、時間に関してもうひとつ触れておきたいことを思い出しました。それは「現時点の自分が一番若い」ということです。
幻冬舎代表取締役社長である見城徹の著書『たった一人の熱狂 仕事と人生に効く51の言葉』に次のような一節があります。
人は必ず死ぬ。今この瞬間は、死から一番遠い。今から1分経てば、僕も君も1分だけ死に近付く。死があって生があり、生があって死がある。生と死は不可分だ。「自分には必ず死が訪れる」と認識した時、生が輝き始める。生きているうちにやるべきことが見えて来る。
「今この瞬間は、死から一番遠い。」は鋭いひとことですね。死から一番遠いとは、いいかえれば、一番若いということ。若いというのは何も赤ん坊や子どもだけではありません。成人した一人の人間を思い浮かべてみてください。いくら歳を重ねたといっても、死の地点から見た場合、今日の自分が一番若いのです。明日になれば一日分死に近づくことになりますが、人生の残り時間を考えた場合、明日の時点ではやはり明日の自分が一番若いのです。
もう若くないと思えど死には若き齢を生きて朝鵙に遇う 吉川宏志『鳥の見しもの』
人はいつまでを若いと思い、いつからを若くないと感じるのでしょうか。「もう若くないと思えど」と始まり、自らをもう若くはないと感じています。それは、人生の平均寿命から考えると自分の年齢はもう若くないということなのか、あるいは家族や知人の誰かと比較して若くないということなのか、そのあたりは明確ではありませんが、とにかく「もう若くない」と思っていることは確かなようです。
さて、「若くない」とはいいつつも「死には若き齢を生きて」と続いていきます。自分は若くないと思いながら、「死」という一地点から見れば、今の自分は「若き齢」であると詠っているのです。「死」に到達すれば、そこで生は終わるため、若いも若くないもなくなります。最も歳をとった地点が、その人の「死」となるのです。
若い、若くないを、生誕という始まりを起点に考えると今の自分は「もう若くない」と感じても、死という終わりを起点に考えると、今の自分は若いと感じられます。いつの自分が一番若いかといえば、今この瞬間の自分が一番若いのです。一日過ぎれば一日分歳をとっていくわけですから、若さという点では今この瞬間が死から最も遠い地点であるでしょう。
この朝鵙にこの日この朝この時間に遇うことも、また一回限りのことだといえるでしょう。そのような一回性の連続が人生を形成していくのです。瞬間の貴重さを意識しつつ、その場面をいくつもつなぎ合わせた結果、その人だけの人生がつくられるのではないでしょうか。死から最も遠く最も若いときは、今この最先端の瞬間だけのものである。そんなことを改めて感じさせてくれる一首です。
時間の最先端を生きることは、人生で最も若い瞬間を生きるということです。人生もう遅すぎるなんていうことはありません。だって今が一番若いのですから。
自分の立っている場所と時間が死から最も遠い地点であると気づけば、少し勇気が湧いてきませんか。死から最も遠い地点であるからこそ、あらゆることが可能であるような気がしてきます。
時間の最先端を生きる以上、うまくいかないことだっていくつも出てくるでしょうが、今この瞬間が一番若いと考えると、少なくとも挑戦するチャンスは数えきれないくらいあると思えるでしょう。不馴れながらも、時間の最先端を目一杯生きていく。生きるということは、そういうことなのかなと思います。
時間の最先端なんだから、多少うまくいかなくてもいいじゃないか、仕方なくてもいいじゃないかと捉えられれば、もっと楽にもっと充実して生きていけるのではないでしょうか。


