らあめんの矩形の海苔を最後まで鉢の縁に残しておりぬ
永田淳『光の鱗』
永田淳の第四歌集『光の鱗』(2023年)に収められた一首です。
ラーメン屋でラーメンを食べた場面だと思います。
ラーメンの具といえば、チャーシュー、メンマ、もやし、ネギ、煮卵、海苔などが思い浮かびます。
この歌では、海苔を最後までラーメン鉢の縁に残したままの状況が詠われています。海苔は大抵四角形か長方形で提供されることが多いと思います。しかし、ここでは”四角形”でも”長方形”でもなく「矩形」の語が選択されています。日常会話ではあまり用いない「矩形」という言葉が、海苔に独特の雰囲気を与えているでしょう。
確かに、ラーメンの海苔の食べごろはいつが適切なのか、いつも迷います。
おにぎりの海苔であれば、その海苔はおにぎりには欠かせないものとして、白米と一緒に食べるものとして存在します。むしろ、海苔の存在感は大きいといえるでしょう。
しかし、ラーメンの海苔は、おにぎりの海苔と比べて何とも頼りなさげな存在です。チャーシューや煮卵の存在感を上回る、ラーメンの海苔というものに私はいまだかつて出会ったことがありません。チャーシュー大盛りのチャーシュー麺はあっても、海苔増しの”海苔麺”は聞いたことがありません。
ラーメンの海苔にいつ手をつけていいのかと考えてしまいますし、海苔の手応えというか食べ応えというのもどうしても印象が薄くなってしまいます。
主体は、この海苔を果たして食べたのでしょうか。それとも食べずに残したままラーメン屋を出たのでしょうか。最後まで残して食べたのか、食べなかったのか。食べようと思っていたけど、海苔を食べるタイミングがつかみきれず、最後まで残ってしまったのか。そもそも海苔が嫌いだったのでしょうか。あるいはラーメンとは全く関係のないことで思考が埋め尽くされて、ラーメンの海苔の存在が脇へ追いやられてしまったのか。ラーメンの海苔ひとつのことですが、ラーメンの海苔という何ともいえない存在を通して、色々と想像させられる一首です。



