「幸せに暮らしましたが死にました。けれど死ぬまで幸せでした」
木下侑介『君が走っていったんだろう』
木下侑介の第一歌集『君が走っていったんだろう』(2021年)に収められた一首です。
歌集掉尾の歌で「最後の童話」という題が付されていますが、この一連はこの一首のみから成り立っています。
一般的に童話の結末はさまざまで、死が明示される場合もあればそうでない場合もあります。
掲出歌は、全体が鉤括弧で括られており、童話の最後の一文を表しているのでしょう。この歌を読むと「幸せ」と「死」との関係について改めて考えさせられます。
童話の最後の一文が「幸せに暮らしました」であれば、それはハッピーエンドとして受け取れますが、「幸せに暮らしましたが死にました」では、文の最後が「死にました」で終わるため、純粋にハッピーエンドとしては受け取れなくなってしまいます。
しかし、この歌はその続きの一文を用意しています。「けれど死ぬまで幸せでした」がそれです。これによって、再び読後感として「幸せ」に焦点が当たるようになっています。
つまり構造としては「幸せ」→「死」→「死」→「幸せ」の順番で述べられています。最後を「幸せ」で終わらせるのであれば、最初から「幸せに暮らしました」という表現だけでもいいように思います。それをわざわざこの一首は、一旦「死」を介して再び「幸せ」に戻るという、ある意味面倒くさいことをやっているのです。その意図は何なのでしょうか。
それは「死」を明確に示すということではないでしょうか。
人はいずれ死にます。どんなに長寿であったとしても、生の先には死があるのです。
もし「幸せに暮らしました」だけで童話が終わっていれば、読み手はそこに「死」を意識することはまずないでしょう。ですから、この歌は「死」という言葉を配して「死」を明確に示そうとしているように感じてしまうのです。
しかし「死にました」で終わると悲しい結末の印象が残ります。そこで「けれど死ぬまで幸せでした」という文が付されて、結末の悲しさを緩和しているのだと思います。
童話というのは、この世とは別世界のものとして捉えられることもありますが、童話の世界であっても生死は存在するということを、この一首は物語っているように感じます。
「死」はやがて訪れる、そんな当たり前のことをこの一首は教えてくれているのです。しかし「死」に至るまでどのように過ごすかはその人次第でしょう。幸せに過ごそうが、不幸せに過ごそうが、いずれ死はやってくるのですが、「幸せ」とは「死」に至るまでの過程に存在するものだということを改めて考えされられるのではないでしょうか。
「死ぬまで幸せ」であったこと、それがこの童話の唯一の救いのように感じます。