かなしみを荷物のやうに持ちかへて少し弾めりそのかなしみは
阪森郁代『ランボオ連れて風の中』
阪森郁代の第一歌集『ランボオ連れて風の中』(1988年)に収められた一首です。
「かなしみ」は悲しみや哀しみと捉えたいと思いますが、「かなしみ」が訪れたとき、どのように対処するでしょうか。
泣く、抵抗する、相談する、時間が解決するのを待つ、他のことをして気を紛らわせる、など色々あるかもしれません。場合によっても対応は異なるでしょうし、かなしみの度合いによっても変わってくるでしょう。
さて、掲出歌の面白いところは「かなしみを荷物のやうに持ちかへて」いるところでしょう。
「荷物のやうに持ちかへる」とは、かなしみを一か所に固定しておかないということではないでしょうか。かなしみがやってきたとき、そのかなしみをまるで荷物を持ちかえるように、少し移動してやるようなイメージでしょうか。見る角度が変わることで、重大だと思っていたかなしみが、実はそうでもないと思えることもあるのでしょう。
「少し弾めり」という部分がいいと感じます。かなしみが軽くなった感じがします。片手で荷物をずっと持っていると、その片手だけが大変痛くなってくることがありますが、かなしみも同様なのでしょう。同じ視線で、同じ角度で見ていたら、そのかなしみはどんどん膨らんでいくのではないでしょうか。
荷物を持ちかえるように、かなしみを取り扱えるかどうかがキーポイントになると思います。
蛇足かもしれませんが、表現の点から一つ見ておきたいと思います。言葉の流れについて見ると、三句「持ちかへて」と四句「弾めり」のつながりに少しひっかかりを覚えますが、これは意図されたものなのではないでしょうか。
「持ちかへて」という主体の行為からすると、四句は”弾ます”となるのが流れとして自然な感じがします。「弾めり」は自然に弾んだ感じがするので、四句が「弾めり」という表現になるのであれば、三句は”持ちかへると”のような言葉がスムーズにつながる表現になるのかと思います。しかしここでは「持ちかへて」と「弾めり」の組み合わせとなっているのです。
ここで思い出したのは、佐藤佐太郎の有名な次の一首です。
冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ (佐藤佐太郎『形影』)
三句と五句のつながりがよく話題にされる歌です。「いでて」なら”見る”、「みゆ」なら”いづれば”のような表現の呼応がスムーズですが、この歌は「庭にいでて」と「みゆ」の組み合わせとなっています。
掲出歌の「持ちかへて」と「弾めり」に、佐藤佐太郎の歌の三句「庭にいでて」と結句「みゆ」(=見えるの意味)の関係と同じような印象を受けました。
「持ちかへて」と「弾めり」との間には若干のタイムラグがあるのだと思います。その時間差が「持ちかへて」と「弾めり」の組み合わせを生んでいるのではないでしょうか。
そのような表現のねじれも含めて、印象に残る一首です。



