tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第15回(「視点」の第3回)です。今回は「不運もチャンスに変えるラッキーアイをもつ」と題して、ラッキーを見つめる視線について考えていきます。
世の中、不運なことだらけだなあと感じて日々を過ごしてますか? それとも、世の中ラッキーなことばかり起こるなあと感じて日々を過ごしていますか?
不運続きに思える日々においても、例えば、次のようなちょっとした出来事をこれまでに経験したことはあるのではないでしょうか。
- 空が晴れていて、朝の日差しが心地よかった
- 横断歩道に到着したらちょうど信号が青だった
- 駅に着いたら電車がちょうどやってきた
- 遠出しようとする日が晴れになった
- 懸賞に当選した
- 地域の商店街イベントの福引で商店街で使える割引券が当たった
- ほしい本をネットショッピングで買おうとしたとき、たまたま30%オフクーポンがあった
- ほしかった服がフリマで安く見つかった
- 友達から、大好きなチョコレートのお土産をもらった
探せば色々なちょっとしたラッキーが身の回りにはあると思います。それをラッキーと思うかどうかではないでしょうか。
空が晴れていたり、信号がタイミングよく青になったりすることを、そんなの当たり前だし、大したことないしと思えば、それはたちまちラッキーではなくなります。
しかし、これら小さなこともラッキーだと思えば、自分の人生にラッキーが増えていきます。運のいい人は、いってみれば自分は運がいいと思っているということなのです。さまざまなことにラッキーを見い出す能力が高いというべきでしょうか。
このラッキーを見い出す能力を「ラッキーアイ」と呼びたいと思います。同じ現象を見ても、ラッキーと感じる人と、そう感じない人がいます。しかし、どうせならラッキーだと捉えることで、自分の人生にラッキーがどんどん積み重なっていきます。そうなれば、自分の人生はツイている人生ということにならないでしょうか。不運だと思っていたことも、見方によってはラッキーだったと思えることがあります。
自分の人生をラッキーな人生、ツイている人生にするかどうかは、もちろん周りの影響もありますが、自分自身の考え方によるところが大きいと思います。
それでは、ラッキーやチャンスを詠った短歌を見ていきたいと思います。
かみの毛をうかべたような雲がありここからはずっとチャンスなんだ 我妻俊樹『カメラは光ることをやめて触った』
「かみの毛」「チャンス」という言葉が詠われていますが、この歌を読んだとき、「チャンスの神様は前髪しかない」という言葉を思い出しました。これはチャンスの神様は前髪しかないので、向こうからやってきたときにすぐにつかまなければ、後からつかまえることはできないという意味の言葉です。チャンスは訪れたそのときにつかまなければ、つかめないのです。
さて、この歌は、神様そのものは登場しませんが、「かみの毛をうかべたような雲」が登場します。この雲は、入道雲のような輪郭がはっきりとしてごつごつとした雲ではなく、巻雲のような薄い感じの雲を指しているのではないでしょうか。とにかく雲を見て、「かみの毛をうかべたような雲」だと感じたのでしょう。雲はただの雲ではなく、主体にとっては意味をもった雲に変わったのでしょう。
そして「ここからはずっとチャンスなんだ」と続きますが、なぜ「かみの毛をうかべたような雲」があれば、その後「ずっとチャンス」なのでしょうか。
ここで冒頭に触れた言葉「チャンスの神様は前髪しかない」が思い出されるのです。つまり「かみの毛をうかべたような雲」をチャンスの神様に相当するものと捉えるならば、その雲があるうちはいつでもチャンスをつかむことができるわけです。逆にいえば、その雲が消えてしまえば「かみの毛」も消えてしまうわけで、もうチャンスをつかむことはできないでしょう。
ですから「かみの毛をうかべたような雲」があり続ける限り、主体にとってはチャンスをつかむ機会がずっとそこにある状態といえるのではないでしょうか。
「ここからはずっとチャンスなんだ」という力強いいい方に好感がもてます。物事は捉え方次第ともいえますが、「雲」を見て「かみの毛」を想像し、そこから「チャンス」を思い描く、そのような思考に後ろ向きの要素はほぼ含まれていないように思います。強いていえば、若干自分自身にいいきかせ、自分を鼓舞しているような印象がわずかながらにあるといえばあるかもしれません。
しかし、そのような鼓舞を含んでいたとしても「ここからはずっとチャンス」と生きていくことができれば、どんなに素敵でしょうか。
「ここからはずっとチャンス」というラッキーアイをもつことで、今後訪れるであろうチャンスが途端にワクワク感じられるのではないでしょうか。
チャンスはぼくに一度だけくる落ちてくるあの鳥とほほえみをかわそう 正岡豊『四月の魚』
こちらは「チャンス」の一回性を詠っている歌です。「一度だけくる」という断言が強く響きます。「落ちてくるあの鳥」がチャンスの神様のような存在なのでしょうか。「あの鳥」をチャンスの神様にしてしまおうと、そう自分で決めたのかもしれません。
「あの鳥」がチャンスそのものだから、あの鳥と「ほほえみ」を交わすことができれば、それはすなわち自分にチャンスが巡ってきたことの証そのものになるのではないかといった感じではないでしょうか。
自分にはチャンスは一切訪れないと嘆いているばかりではなく、このようにチャンスはやってくると思うこと、そしてそのチャンスと向き合えたなら、きっとうまくいくという考え方をもつことができるかどうかを感じさせてくれる歌です。
七十年の回顧なしつつわれの身におとづれし幸運を指折りかぞふ 小池光『サーベルと燕』
七十年という長い年月には、実にさまざまな出来事が訪れたのだと思います。当然、いいこともあれば、あまり思い出したくない苦い出来事もあったでしょう。ただ、七十年を回顧するときに、「幸運を指折り」数えたのです。不幸を数えることもできたでしょう。しかし、ここでは今までに自分自身に起きた「幸運」をひとつひとつ数えていったのです。
不幸を数えるのではなく「幸運」を数えるところに、ラッキーを見つめる目を感じます。
焦点をどこに当てるのか。不幸に当てるのか、それとも幸運に当てるのか。人生という長い歳月の回顧において、そこからどこをどのようにピックアップするかは、その人に委ねられています。けれども、どうせなら「幸運」を数えたいものです。
「幸運を指折りかぞふ」に非常に好感がもて、七十年という時間とともに、幸運を数える視線に穏やかさとあたたかみを感じる一首です。
ついてないわけじゃなくってラッキーなことが特別起こらないだけ 枡野浩一『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 枡野浩一全短歌集』
物事をどう捉えるかで、今起きている現象がいいようにも悪いようにもどのようにも変化させられることを、まさにこの一首は教えてくれるのではないでしょうか。
一般的にツイているといわれることが、日々あまり起こっていないのかもしれません。でもそれは、決して「ついてないわけ」ではないのです。ツイてないなあと思うから、ツイてないのであって、ツイていると思えば、ツイているのです。
ここでは「ラッキーなことが特別起こらないだけ」という捉え方をしています。一見ツイていないように思える日々でも、特別ラッキーなことが起こらないだけと捉えると、少し見え方が変わるのではないでしょうか。「ラッキーなことが特別起こらない」日々というのは、残念な日々なのでしょうか。決してそんなことはないと思います。むしろ、アンラッキーなことが起こらない平穏な日々なのではないでしょうか。かなしい出来事も悔しい出来事も起こらない平穏な日。それは、「ついてない」わけではないと思います。
ラッキーなことが特別ないかもしれませんが、そのような平穏な日は、それはそれでとてもありがたい日なのではないでしょうか。そういう一日が過ごせることは、とてもありがたいと感じるものなのではないでしょうか。
特別ラッキーなことはなくても、健康で安心して日々を過ごせること。それは大変ありがたいことだと感じます。
最後は、独特な詠い方を感じる一首です。
カニってさヤなことあってもピースしてるピースって英語で平和らしいよ 菊竹胡乃美『心は胸のふくらみの中』
カニのはさみを、じゃんけんでいうチョキ、Vサイン、ピースに見立てることは誰でもやったことがあるのではないでしょうか。
この歌は、まさにカニのはさみのかたちに注目した歌ですが、構成としては大きく二段階になっています。
第一段階が「ヤなことあってもピースしてる」で、第二段階が「ピースって英語で平和らしいよ」です。
まず「ヤなことあってもピースしてる」ですが、カニに「ヤなこと」があるのかどうかは、カニに直接訊いたわけではないでしょうから、本当のところはわからないでしょう。そもそも好きとか嫌いとかいう概念が、カニにはあるのでしょうか。それなのに「ヤなことあっても」と勝手に断定しているところが面白く、初句二句の詠い方から、読み手は割と自然に”カニにも嫌なことあるよなあ”と思わされてしまうような仕掛けになっています。
またカニのはさみは、ピースサインをしたくてしているわけではないでしょうし、それ以外のかたちを取りようがない形状なのです。それをまたまた勝手に、カニの気持ちは脇に置いておいて、「ピースしてる」という決めつけを行っているところに、何というか、主体の思いが突き進む感じがして興味深く感じます。
続いて「ピースって英語で平和らしいよ」ですが、今度は形状のピースから、言葉のピースへ転換しています。「ピース」(Peace)は英語で「平和」の意味で、それを誰かに伝えるともなくつぶやいているような印象を受けます。
ピースサインは元々は、勝利をアピールするVサイン(Victory「勝利」のV)からきたようですが、日本ではピースサインで通っています。
「ピースしてる」や「平和らしいよ」には、否定的な捉え方はほとんど感じません。「ヤなことあってもピースしてる」は、主体の捉え方ですが、そのように考えられるところに、プラスに見ようとする主体の目を感じます。
このときの主体はもしかしたら、あまりうまくいっていない状況だったのかもしれません。そんなとき、カニのはさみを見て、自身の状況と比較したのではないでしょうか。
自分はあまりうまくいっていない状況だけど、カニはいつでもどんなときでもピースしている、それって素晴らしいことだよねという思いがあったのかもしれません。カニのはさみから、「ピース」や「平和」を導き出せるところに、主体の気持ちには肯定的な要素が含まれているように感じます。
さらっと読み飛ばしてしまいそうな歌ではありますが、実はじんわりとしたあたたかさを感じる一首なのではないでしょうか。
ラッキーを見つける目をもちたい
冒頭でも触れましたが、ラッキーを見つける目「ラッキーアイ」をもつことが、人生を好転させるうえで結構重要なことではないかと感じます。
運がいい人の特徴のひとつとして、自分自身をラッキーだと思い込んでいるということがあります。つまり、自分はツイているなあ、ラッキーだなあと感じていれば、自然とラッキーなことが目につきますし、自ずとラッキーが舞い込んでくるということかもしれません。
ラッキーの種が転がっていたとしても、それに気づかなければ、本物のラッキーに育たないかもしれませんしね。
…空が晴れている、ラッキーだなあ…。
…信号がタイミングよく青だ、ラッキーだなあ…。
こんな感じで、一見当たり前で見過ごしてしまいそうなことにもラッキーを感じられるかどうか。そこにラッキーを感じられるように生きていれば、きっともっと大きなラッキーがやってくると信じています。
…今日も、ここに文章を書くことができる…。
…拙くても、文章を書くことができる…。
とてもラッキーなことです。




