いのちとは未生の無から死後の無へわたる吊橋 ぐらぐらとせり
小島ゆかり『希望』
小島ゆかりの第五歌集『希望』(2000年)に収められた一首です。
「いのち」とは不思議なものではありますが、「いのち」を端的に「吊橋」という比喩で表現したのが掲出歌です。
「未生の無」から「死後の無」という対比となる言葉が特徴的ですが、いわれてみれば確かに「無」から「無」への過程こそ、「いのち」すなわち生きることそのものなのだということをこの歌は気づかせてくれます。
二つの「無」の間を”有”とするならば、その”有”が「吊橋」のような一生ということになります。橋にも色々種類はありますが、ここでは「吊橋」として捉えられています。この吊橋は、例えば明石海峡大橋のような大きな吊橋ではなく、どちらかといえば小さな吊橋を指しているのでしょう。ひとりの人間の一生を考えたとき、人ひとりが通れるほどの幅の吊橋の方が似合うように思います。
そしてその吊橋は、「ぐらぐらとせり」とあるように揺れているのです。一生揺れ続けているのでしょうか。あるいはそうかもしれません。
しかし、ぐらぐらとはしていても、吊橋自体が落ちたり壊れたりといったイメージはこの歌からはあまり受けません。それは「未生の無」という起点と、「死後の無」という終点が明示されているからであり、ぐらぐらとしながらも「死後の無」へたどり着く、そんな印象をもたせてくれるように思います。
「いのち」がぐらぐらしていることを嫌っているというよりも、むしろこのぐらぐらを楽しんでいるようにも感じられます。「いのち」の喩として登場する橋の場合、まったく揺れない橋よりもぐらぐらとしながら揺れ幅のある橋の方がきっと面白いと思うのです。
揺れ幅がある、それが人生の豊かさに通じるように感じます。
「吊橋」と「ぐらぐらとせり」の間に一字空けがありますが、この一字空けがとても効果的に働いていると思います。吊橋と一旦提示しておいて、一字空けて「ぐらぐらとせり」と続くことによって、よりぐらぐら感が強調されているでしょう。
この歌を読んで、いのちを悲観的に捉える人もいるかもしれません。しかしそうではなく、”いのちは吊橋でありぐらぐらするものだから、どうせならそのぐらぐらを楽しもう”というくらいに捉えた方が、この歌も生きてくるでしょうし、何より読み手自身が生き生きとしてくるのではないか、そんなふうに思われる一首です。