運命は自ら開くものとして黙って受けるものは宿命
岡部桂一郎『坂』
岡部桂一郎の遺歌集『坂』(2014年)に収められた一首です。
一般的に「運命」と「宿命」は、定められたものという同じ意味合いの言葉として捉えられることが多いかもしれません。つまり、あらかじめ決まっていて変えることができないものとして、これら両方の言葉を使用しているケースが見られます。
たとえば、国語辞典を見ても「宿命」の定義の中に「運命」という語が登場していることがあり、これらは分離しがたい関係をもった言葉として扱われている場合があります。
このように似たような意味合いで見られることの多い「運命」と「宿命」ですが、掲出歌ではこれらは違うものとして詠われています。
「運命」は「自ら開くもの」、「宿命」は「黙って受けるもの」と対比的に表されています。
つまり「宿命」は、あらかじめ決まっていて変えられないものとして、一方「運命」は自らの意志で変えていけるものとして捉えられているのです。
両方とも、何かしら大いなる力が働くという共通点はあるのでしょうが、そこに自らの意志が介入していけるのか否かといった違いがあるのだと思います。
それは「命」が「宿」るか、「命」を「運」ぶかの違いにも表れているでしょう。
「運命」は自らの意志で切り開いていける余地があるということです。もちろん自らの意志ですべて操作可能かというとそうではないでしょうが、自らの意志が、人生の好転に対して少なからず影響を与えることはできるということでしょう。
このような「運命」の捉え方には好感を抱きます。
ともに変えられないものとして受け入れるよりも、「運命」は自らの意志で切り開き、変えていける可能性があるものと考えた方が、人生に対してより肯定的な向き合い方ができるのではないでしょうか。
特に人生に行き詰まりを感じたとき、運命と宿命の違いを知っておくことは、心を少し軽くしてくれたり、勇気を与えてくれたりするのではないかと思います。
この一首からは、運命と宿命の違いを意識して生きてきた一人の人物像が浮かび上がってくるようで、特に「運命は自ら開くものとして」の部分に、力強さを感じる一首です。