春だから生きているのかいないのか曖昧にしていい春だから
谷川電話『深呼吸広場』
谷川電話の第二歌集『深呼吸広場』(2022年)に収められた一首です。
幽霊などではなく人間である場合、「生きているのかいないのか」を思っている主体は、きっと生きているでしょう。ですから「生きているのかいないのか」を生と死の観点、つまり心臓が停止しているかどうかという肉体的な死を境界として真面目に捉えてしまうと、この歌はあまり面白くないでしょう。
この歌における「生きているかいないのか」は、厳密に突きつめていくのではなくて、もう少し余裕をもって読みたいと思います。
生きてはいるのだけれど生きている心地がしないといった状況や、何となく自分自身がふわふわとして感じられるといった場合、あるいはそれこそ幽霊のような人間ではないものからの視点のように捉えてもいいのかもしれません。
ポイントは「生きているのかいないのか」を「曖昧にしていい」というところにつながっており、「生きているのかいないのか」の曖昧さが増せば増すほど、この歌の魅力は増していくのだろうと思います。
主体が「曖昧にしていい」と詠っているのはもちろん、読み手が「生きているのかいないのか」を曖昧に捉えてくれることが、作者の狙いなのかもしれません。
曖昧にしていい理由は「春だから」なのが、わかるような気がします。初句と結句で二回登場し、サンドイッチするかたちで「春だから」が出てくるのも、視覚的にも音の繰り返しの点でも工夫がこらされ、印象に残るようになっているでしょう。
「春だから」を”夏だから”、”秋だから”、”冬だから”に置き換えても一首の歌としてかたちは成り立つと思いますが、春夏秋冬の中で最も「曖昧」に通じる季節としては、やはり「春」のように感じます。
「曖昧にしていい」は誰かに強要するわけでもなく、強く主張するわけでもなく、どちらかといえば、主体が自身を納得させるような感じで、つぶやきに似た印象をもって伝わってくるように思います。しかしそのつぶやきのような「曖昧にしていい」が、読み手にとっては何かを許されているような感じがして、この歌を読むと少し心が軽くなる、そんなふうに感じられるのではないでしょうか。
「春」、「生きている」、「曖昧」。わかりやすい言葉で複雑にならないように詠われていますが、読めば読むほど、その奥深さに気づいていくような一首だと思います。