春がまだひたすら続く日々でした老婆になった我そこに置く
松平盟子『うさはらし』
松平盟子の第六歌集『うさはらし』(1996年)に収められた一首です。
季節は春。春は春でも、その春の特定の一日ではなく、一定の幅をもった「日々」が詠まれています。ここには時間の経過を感じます。
さて、「老婆になった我」というのは、実際に今老婆であるということではなく、主体が遠い未来の自分の姿を想像している場面だと思います。いつか歳をとって「老婆になった我」を思い浮かべているのです。
「そこ」とはどこを指すのでしょうか。
具体的な場所が詠われているわけではないので、ここでは「春がまだひたすら続く日々」を指していると捉えたいと思います。春のあたたかな日差しの中に置かれた「我」は、やはり朗らかでやわらかで優しい印象を与えてくれるのではないでしょうか。
では、「我」を置くのは一体誰なのでしょうか。
他者によって置かれたというよりは、「我」は「我」によって「そこ」に置かれたというふうに読みたいと思います。もう少し正確にいえば、「老婆になった我」は、”老婆になる前の、今現在の我”によって、いつかどこかの春の日々に配置されたのではないでしょうか。
考えてみると、「老婆になった我」は未来のことであるのに対し、上句はまるで昔話でもするかのように「日々でした」と過去を振り返るような表現になっています。
この時間的な対比と推移もこの一首の魅力となっているのでしょう。
老婆になった我が置かれた春の日々は、遠い将来の日々だったのでしょうか、それとも遠い過去の日々だったのでしょうか、とても不思議な味わいのする一首だと感じます。