映画にはなれない今日が好きだった 卓にふくらみたるティーコジー
笠木拓『はるかカーテンコールまで』
笠木拓の第一歌集『はるかカーテンコールまで』(2019年)に収められた一首です。
「ティーコジー」とは、ティーポットにかぶせる布製のカバーのことで、紅茶を温かいまま保ってくれる機能をもっています。
テーブルにティーポットがあり、それにティーコジーが装着されている場面です。ポットの熱でティーコジーが少し膨らんだ状態になっているのでしょう。紅茶専門店のような店でしょうか、あるいは家の中でしょうか。いずれにしても「ティーコジー」という具体的アイテムが雰囲気を出している歌でしょう。
さて、掲出歌で注目したいのは下句だけではありません。上句の「映画にはなれない今日が好きだった」というフレーズに惹かれます。
映画になる一日というのは、おそらく劇的な展開や奇跡のような出来事が訪れるということを指すのでしょう。
しかしこの歌では「映画になれない今日」が詠われています。平凡な一日だったのでしょうか。あるいは何か落ち込むような出来事があって、それが大逆転すれば映画のようになるのだけれど、そんな大逆転や奇跡は起きないから、ただ落ち込んでいるだけの日だったのでしょうか。「映画になれない今日」からは色々と想像できると思います。
しかし主体が好きだったのは、”映画になるような今日”ではなく、「映画になれない今日」なのです。平凡だろうが、落ち込もうが、映画で見るような華やかさや大逆転、奇跡はなくても、いやないからこそその「今日」を愛おしく思うことができているのだと感じます。
映画になる一日も素敵かもしれませんが、映画になるような日はそうそう訪れるものではありません。であればこそ、「映画にはなれない今日」をどれだけ大切にできるのか、愛着をもてるのか、それが生きていく上で大事なことなのかもしれません。
テーブルにふくらむティーコジーは、穏やかな一日を想像させると同時に、また今日を好きでいられる、穏やかであろう主体の心の内を表しているようで、魅力的な一首だと思います。