雨に傘ひらく何かの標的となるかもしれぬことも知らずに
正岡豊『四月の魚』
正岡豊の第一歌集『四月の魚』(1990年)に収められた一首です。
雨傘を開くとき、人は一体何を思いながら開くのでしょうか。
多くの場合、雨が降ってきたから開く、雨に濡れないようにするために開く、雨が降ると習慣のように開くなど、とにかく雨から身を守るために傘を開くのでしょうが、そのとき特段何かを考え込んだり思い詰めたりすることはまずないと思います。
つまり、雨が降ってきた、だから傘を開くという流れです。傘を開く人にとって、それはただ単に雨から身を守る行為であり、その行為にそれ以外の意味付けをしようということは通常起こらないでしょう。
しかし、掲出歌はそんな傘を開くという行為に対して、どこか危険な匂いを感じさせます。
雨から身を守るための傘を開くという行為が、逆に「何かの標的」になるかもしれないというのです。ここでいう標的は明確にされていませんが、実際に起こりうる標的、たとえば雷に打たれるとか狙撃されるといったものではなく、もう少し大きな存在の標的のように感じます。具体的に何とはいえないような、空や宇宙、あるいは別次元、また過去、未来といった遠い時間からの、人間の手では制御できないような大いなる力によって標的にされるという、そのような標的を指しているように思います。
葛原妙子の次の有名な歌にも通じるところがあるようにも感じます。
他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水 (葛原妙子『朱靈』)
掲出歌は、傘を開くという何気ない行為に、おそろしさと壮大さを感じます。「標的」という語が、ロックオンされた状態、枠組みにはめこまれた状態、秩序に組み込まれた状態を想起させます。標的となるかもしれないことを知らずに開くひとりの人間に焦点が当たると同時に、広大な世界や空間においてはこのひとりの人間がとても小さな存在であることも思わせてくれる一首です。