カップ麺啜れば骨の芯までも痺れるだめだもっと喰いたい
堀合昇平『提案前夜』
堀合昇平の第一歌集『提案前夜』(2013年)に収められた一首です。
「シティ・ダイバー」という一連の中の歌ですが、仕事に向き合うひとりの主体が登場します。
仕事が忙しすぎて、ゆっくりと食事を摂る時間もないのでしょうか。本来であれば、早めに帰宅して外食なり、自宅なりでゆっくりと夕食を摂りたいところではあるでしょう。しかし、そのような時間がないようです。夜の食事もカップ麺で簡単に済ませてしまっている様子が浮かんできます。
主体は、仕事を通して、極限まで追い詰められているのかもしれません。そんな過酷な状況の中で啜るカップ麺だからこそ、「骨の芯までも痺れる」と感じるのではないでしょうか。
「骨の芯までも痺れる」とは一体どのような感覚でしょうか。カップ麺を食べていて、いやカップ麺に限らずですが、食べ物を食べていて「骨の芯までも痺れる」経験というものをしたことがありません。ですので、どのような感覚かは想像するしかないわけです。
この「痺れる」は肯定的に捉えるべきなのでしょうか。それとも否定的に捉えるべきなのでしょうか。体感としての痺れでしょうか。あるいは、脳が「痺れる」と感じているだけなのでしょうか。
考えれば考えるほど、「骨の芯までも痺れる」がわからなくなってきます。
結句には「もっと喰いたい」と詠われています。「もっと喰いたい」は、体が欲しているのでしょうか、脳が欲しているのでしょうか。それとも両方が欲しているのでしょうか。
中々に「痺れる」表現が続く歌ですが、この歌からは、カップ麺を食べることに対するとてもつもない希求のようなものを感じます。単にお腹が空いているからというのではなく、もっと根源的な求めがあふれ出ているようです。
この希求は、カップ麺自体の味のおいしさというわけではありません。あくまでも、主体が立っている今のこの状況が、カップ麺への強烈な希求をもたらしているのでしょう。その際、カップ麺の味は醤油でも味噌でもとんこつでも何でもいいのかもしれません。今この場においては、カップ麺という食べ物であることが意味をもっているように思います。カップ麺という存在の前では、醤油か味噌かとんこつかの違いは取るに足らない些細なことなのではないでしょうか。
このような強烈な希求への行為をもたらすということは、仕事の渦中にいる主体は、ある意味で追いつめられているのかもしれません。
カップ麺を強烈に求める状況というものが背景に立ち現れて、ひとりの主体が輪郭をもって記憶に焼きつく、そんな一首ではないでしょうか。


