私のなかに誰がゐるのかラーメンの替玉をして寒さが戻る
荻原裕幸『永遠よりも少し短い日常』
荻原裕幸の第七歌集『永遠よりも少し短い日常』(2022年)に収められた一首です。
季節は春。これからだんだんと暖かくなっていく季節ですが、「寒さが戻る」とあるので、寒の戻りの3月終わりから4月上旬にかけての頃でしょうか。
寒さが戻るこのときに食べるラーメンはまた格別に美味しいそうですね。替玉をしているところから、主体は結構ラーメンが好きなのではないかと想像します。
替玉というのは面白いもので、最初から麺の量を増やしている大盛りとは違います。替玉の根底にあるのは、単に量を多く食べたいというのではありません。量を多くしたいのであれば、大盛りで事足ります。ひと玉食べ終わってから、後で替玉をスープに入れるところが、替玉の替玉たる存在そのものなのでしょう。つまり、麺の量が増えるかどうかは二の次であり、その名の通り”替える”ところに、替玉の本質があるように思います。
さて、ここでこの歌の一番触れておきたい部分、「私のなかに誰がゐるのか」について見ていきましょう。
「私のなかに」と表現されることで、「私」という存在に入れ子構造が生まれます。通常、「私のなか」には「私」しかいないように単純に捉えがちですが、本当はそうではないのかもしれません。「誰がゐるのか」には、私という存在に対して、若干の違和感のようなものがこのとき兆してきたのではないかと考えさせられます。
「誰」は、見知らぬ他者、もしくはよく知っている他者かもしれません。あるいは他者ではなく、自分自身かもしれません。「私のなか」にいる私は、私そのものとは別の私なのかもしれません。
そんな「誰」かが、「私のなか」から本来の私を追い出して、空になった空間を占めはじめようとしているのではないでしょうか。何となく「誰」かいるような感じはするのだが、はっきりとは認識できない状態なのでしょう。
ラーメンに戻ると、替玉という行為が、まさにこの「私のなか」に別の「誰」かを入れる様を一層想像させてはこないでしょうか。”替える”のが麺であれば何ということはありませんが、もしも私という存在の一部が”替えられてしまう”とすれば、結構怖ろしいことかもしれません。「誰」かわからず正体がつかめないところも、不安を増幅させるには充分すぎるでしょう。
そう考えると、冒頭に触れた「寒さが戻る」は、寒の戻りの気候的な寒さだけではないのかもしれません。「替玉」によってもたらされる私の存在に関わる怖ろしさを湛えた「寒さ」も含まれているような気がしてきて、読めば読むほど結構怖い歌なのかもしれないと想像をたくましくするばかりです。
替玉という日常が、私そのものの存在の隙間にふっと忍び寄ってくる感じがして、印象深い一首です。



