「燃えるお札」のマジック習得せし夫が術後のわれの前にて演ず
栗木京子『けむり水晶』
栗木京子の第六歌集『けむり水晶』(2006年)に収められた一首です。
マジックを見る場面として、どんな時が考えられるでしょうか。
直接目の前でマジックを見る機会というのはあまり多くないかもしれませんが、最近はテレビや動画サイトなどを通して見ることができるようになりました。
掲出歌は、直接目の前で見たマジックの場面ではありますが、演じ手はプロマジシャンではありません。夫です。しかも「マジック習得せし」の表現から、これまでマジックを誰かに見せてきたような印象もありません。
そんな「夫」が「われ」の前でマジックを演じてくれました。それもかなり特殊な場面なのですが、われが手術を受けて、その傷がまだ癒えないうちに見せてくれたのです。
夫が演じたのは「燃えるお札」のマジックと詠われています。紙が燃えてお札に変わるマジックなのか、お札から火が出ているが最終的にはお札は燃えないというマジックなのか、詳細はわかりませんが、具体的なマジックの名前が詠われていることでより実感を伴って伝わってきます。
それにしてもなぜ夫は「燃えるお札」のマジックを、術後の「われ」の前で演じたのでしょうか。「われ」が入院して手術を受けると決まってから、このマジックを習得したのでしょうか。「われ」のために「夫」はマジックを習得しようと思ったのでしょうか。
手術という大きな出来事に対して「夫」ができることは限られていたのかもしれません。しかしマジックを習得し、それを術後の「われ」に演じてみせたというところに、「われ」=妻への愛情または思いやりのようなものを感じます。
術後の「われ」のとって、夫のこの行為は不思議な面がありながらも、同時に励ましや愛情の側面を大いに感じることができたのではないかと想像します。
たとえ同じマジックを演じるにしても、演じる場所、演じる時、演じる相手によって、そのマジックは毎回違ったものになるでしょう。今回は日常とは少し離れた状況であったからこそ、その場で演じられたマジックが価値をもつのだと思いますし、結果としてこの歌が生きてくるのだと感じます。