さびしさを知る直線と曲線が交差しながら明けてゆく空
松村正直『駅へ』
松村正直の第一歌集『駅へ』(2001年)に収められた一首です。
夜明けの場面かと思います。
この歌における「直線」は地平線や水平線を指しているのでしょう。そして「曲線」は太陽の丸い輪郭を指しているのでしょう。
朝日が昇り始めるとき、まず太陽の上の弧の部分が水平線に触れ、その後太陽が完全に昇りきるまで、太陽の輪郭と水平線はずっと交差した状態を保ちます。昇りきる寸前太陽の下の弧の部分が水平線と接した状態となり、それが離れれば昇りきった状態となるでしょう。
そのような夜明けの過程を「直線と曲線が交差しながら」という幾何学的な表現で捉えたところに、この歌の魅力があると思います。
それにしても「さびしさを知る」というのはどういうことでしょうか。なぜさびしさを知っているのでしょうか。また「さびしさを知る」が掛かるのは「直線」だけなのか、それとも「直線と曲線」の部分なのでしょうか。このあたりもはっきりしないといえばはっきりしませんが、「直線」「曲線」という言葉が対比的であることから、ここでは両方に掛かるというふうに採りたいと思います。
この「さびしさ」は何に対するさびしさなのかということですが、具体的に何かに対するということではなく、根源的な「さびしさ」なのではないかと感じます。
地平線や水平線、また太陽といった人間からすればスケールの違いすぎる大自然に対して、人間と同じ「さびしさ」を適用することは難しいように思います。
直線は直線のまま、曲線は曲線のまま、その姿を変えることはできないでしょう。直線が曲線に憧れ、曲線が直線に憧れたとしても、直線はやはり直線でしか存在しえず、曲線は曲線でしか存在しえないのです。
そのように自身の存在の変化しようのない点を根源的な「さびしさ」として捉えているのではないでしょうか。
互いが互いを憧れようとも、互いの存在は永遠に変化することもなく、昨日と同じように今日もまた日は昇り続けているのです。