美しい日没があすもあるのかと問う声にえぐられている日あり
百々登美子『盲目木馬』
百々登美子の第一歌集『盲目木馬』(1962年)に収められた一首です。
日没が美しいか美しくないかは、それを見る人によって感じ方はさまざまでしょうし、またひとりの人にとっても今日見る日没と明日見る日没が同じように美しいと感じるかどうかはわからないでしょう。
ここでは初句で「美しい日没」と示されていますが、この日没は主体が美しいと感じる日没であると捉えておきたいと思います。
「美しい日没があすもあるのか」というのは、一体誰からの問いなのでしょうか。具体的な誰かからの問いかけというよりも、自らの内側から湧き起こってきた問いかけのように感じます。それは大いなる力によって、主体自身にもたらされた問いかけなのかもしれません。
さて、そのような問いかけが主体になされたわけですが、その問いかけを主体は苦しく感じているのでしょう。「えぐられている」の表現には、表面的に留まらず、肉体の、そして心の内側奥深くまで切り込むような痛切さを感じずにはいられません。
仮に今日、とてつもなく美しい日没を見たとして、明日同じように美しい日没が見られるとは限りません。生きるということは今この瞬間であり、それが明日も同じように続くと思っているだけで、実際明日がどうなっているかは誰にもわからないものです。
「美しい日没があすもあるのか」
この問いかけは、突き詰めれば”生きるということは何なのか”と同義なのではないでしょうか。
“あなたは今この瞬間を本当に生きているのですか”
そのような問いを突き付けられているようで、主体にとっても読み手にとっても心に刺さる一首ではないでしょうか。