缶で飲むアクエリアスのおいしさを懐かしがって死んじゃうんかね
岡野大嗣『音楽』
岡野大嗣の第三歌集『音楽』(2021年)に収められた一首です。
人が死ぬときに思い出すことは一体何でしょうか。納得のいく死の瞬間とはどういったものなのでしょうか。
死が身近に迫っておらず、死が遠い存在としてある場合、死の瞬間に振り返るであろうことを想像するのは難しいことかもしれません。
例えば、ブロニー・ウェア著『死ぬ瞬間の5つの後悔』によれば、死ぬ瞬間に後悔することとして次の5つが挙げられています。
- 自分に正直な人生を生きればよかった
- 働きすぎなければよかった
- 思い切って自分の気持ちを伝えればよかった
- 友人と連絡を取り続ければよかった
- 幸せをあきらめなければよかった
もちろんこれらの後悔を感じるケースが多いというのは、何となく納得できる気がします。ただ一方で、死ぬ瞬間に思い出すことは非常に個人的で些細なことであることも充分考えられるでしょう。
掲出歌は、「缶で飲むアクエリアスのおいしさ」を懐かしがるというところを想像しています。これは日常における何気ない出来事でありながらも、妙にリアリティをもって読者に迫ってきます。
それは「缶で飲むアクエリアスのおいしさ」という表現が、よく見れば具体的であるからでしょう。
まず「缶で飲む」という限定があります。ペットボトルやコップで飲むのではなく、「缶」というところにおいしさを見つけ出しているわけです。冷たい飲み物を飲む場面を想像したとき、缶のもつひんやりとした感触が伝わってきます。
そしてもうひとつは、「アクエリアス」という商品名が詠み込まれている点です。一般名詞のスポーツドリンクではなく、具体的な名称が登場することで、より個人的な出来事として輪郭が与えられています。
死ぬときに懐かしがるのは、主体が経験した出来事であり、主体の記憶として残っている「缶で飲むアクエリアスのおいしさ」なのです。同じような経験を他者がしていたとしても、それは主体の経験と全く同じものというわけではありません。その唯一性が、この経験を価値あるものとして特徴づけていくのだと思います。
「缶で飲むアクエリアスのおいしさ」は、長い人生の場面においては、いってしまえば些細なことかもしれません。しかしこういう些細な出来事こそ、死ぬ瞬間に思い出したり懐かしがったりするものなのかもしれないと思います。
それは社会的な出来事とはかけ離れた個人的な出来事ですが、こういう個人的な出来事が死ぬときに振り返るには何にも増してふさわしいのではないかと感じさせてくれる一首です。