ぼろぼろと剝がれて落ちてゆくものを育て続けた日もあったはず
安藤美保『水の粒子』
安藤美保の第一歌集『水の粒子』(1992年)に収められた一首です。
生きていくということは、意識をするかしないかに関わらず、何かしらをつくりあげていくことにつながっているのではないかと思います。
それは具体的に目に見える創作物である場合もあれば、直接目には見えない自身の考え方や感じ方といった場合もあるでしょう。
日々を重ねることは、その善し悪しは別として、それら何かを段々と構築していっているといってもいいかもしれません。
掲出歌では「育て続けた」何かが詠われていますが、具体的に何だったかは明示されていません。しかし、その「育て続けた」ものは「ぼろぼろと剝がれて落ちてゆくもの」になってしまったことは確かなようです。
やがて剝がれて落ちることを主体が元々望んでいたわけではないでしょうが、「育て続けた」何かは、気がつけば剝がれて落ちてしまったのです。
ここからはある種の喪失感のようなものが伝わってきますが、不思議と喪失感の強さはあまり感じません。それは結句の「あったはず」という表現によるものでしょうか。
「育て続けた日」があったこと自体が不確かであり、あったかなかったかでいえば、その日々はあったのでしょうが、主体の思いとして、その日々に対して肯定できない、あるいは肯定したくないといった感情が「あったはず」といった微妙な表現を採らせているように感じます。
ひょっとすると主体は、剝がれて落ちることは望んでいないにしても、剝がれて落ちることを予感していたのではないでしょうか。いつかは剝がれて落ちるだろうと思いながらも、その何かを育て続けていた日々があったのではないでしょうか。
その日々を、後悔として捉えるのではなく、熱心に育て続けたことに対してむしろ愛着をもって向き合っているように思います。
結果よりも、育て続けた日々があったという過程そのものに価値があることが暗に示されているようで、印象に残る一首です。