ねばならない、ねばならないと唱えながら歩くのはもうやめると決めつ
中沢直人『極圏の光』
中沢直人の第一歌集『極圏の光』(2009年)に収められた一首です。
物事が”しなければならないこと”と”したいこと”の二つに分けられるとしたら、一体どちらを選びたいと思うでしょうか。
何の制約もない場合、”したいこと”を選択するでしょう。しかし、現実として”したいこと”だけを選択して生きている人は少ないのではないでしょうか。
掲出歌を読むと、”しなければならない”と”したい”の差を改めて考えさせられます。
切り方によっては色々と受け取り方があるかもしれませんが、素直に「唱えながら歩く」をひとかたまりと見て、それを「やめる」と決めたというふうに採りました。
主体は「ねばならない」と唱えながら歩いている状態をこれまでも何度も行っていたのでしょう。
働かねばならない、勉強せねばならない、食べねばならない、眠らねばならない、話さねばならない、参加せねばならないなどなど、「ねばならない」ことはたくさんあると思います。
しかし、この歌では何をせねばならないのかは具体的には示されてはいません。そこは読み手が自由に想像するしかないでしょう。
歌の表現に戻れば、「ねばならない」のリフレインが、よほど強く「ねばならない」を唱えていたことを物語っています。「ねばならない」が口に出るということは、そのような考えが根底にあるからで、それを「唱えながら歩く」のを「やめる」と決断できたのは、客観的な視点が介在する何かがあったのかもしれません。
三句「唱えながら」は字余りとなっており、上句の意味と関連しつつ、三句で少しだらだらする感じがありますが、結句の「決めつ」の「つ」が、その語感も相まって決断の強さを表しており、一首全体として緩急が巧く表れているように感じます。
もう一度この歌をなぞってみると、「ねばならない」を「やめる」とは詠われておらず、「ねばならないと唱えながら歩く」のを「やめると決めつ」と詠われています。ですから正確には、「ねばならない」をやめたわけでもありませんし、「ねばならないと唱えながら歩く」のをやめたわけでもありません。
「ねばならないと唱えながら歩く」のをやめると決断しただけなのです。この段階では何もやめてはいないのですが、この歌を読むと、やがて「ねばならない」を「やめる」のだろう、あるいはもうすでに「ねばならない」をやめた状態であるかのような段階に、読み手の思考はもっていかれるように感じます。錯覚といえば錯覚ですが、結句の強いいい切りがそのように感じさせるのかもしれません。
「ねばならない」ことは、やがて”したいこと”に変わったのでしょうか。その違いは物事の捉え方の違いだけともいうことができるでしょう。同じ物事に対して「ねばならない」と捉えるか、”したい”と捉えるか、それは人によって異なります。
ひょっとすると主体が感じていた「ねばならない」は、そう思い込んでいただけで、実は「ねばならない」ではなかったのかもしれません。ここで詠われている決断のきっかけは示されていませんが、それを想像してみるのも楽しいのではないでしょうか。