生まれ変はつてもサラリーマンであるやうな冬空の下にバスを待ちをり
田村元『昼の月』
田村元の第二歌集『昼の月』(2021年)に収められた一首です。
「生まれ変わったら何になりたい?」という質問をしたこと、あるいはされたことがある人も多いのではないでしょうか。
生まれ変わらなくてもなりたいものが何かを問うことはできるのですが、生まれ変わったらという究極の条件をつけることで、なれないけれどなりたいものを引き出す質問ともいえるでしょう。この質問は遊びといえば遊びであり、問うている方も答える方も大真面目に問答するケースは少ないと思います。
さて掲出歌はそんな質問とはかけ離れた、現実そのものを見せつけられるような歌です。
「サラリーマン」とは給与を得て生活している人全般を指しますが、会社員のイメージが強い言葉だと思います。組織に属し、誰かに雇われているという状況が、この歌の「サラリーマン」から滲み出ているように感じます。
現在もサラリーマンであり、「生まれ変はつてもサラリーマン」であるというところに何ともいえない思いがあるようです。「サラリーマン」を肯定していると捉えるか、否定していると捉えるかによって見方が変わってくると思いますが、完全にどちらかというわけではないのではないでしょうか。
印象としては、どちらかというと否定寄りかと思います。諦念も含んでいるでしょう。ただし、完全否定ではなく、サラリーマンにはサラリーマンのいい点は存在するわけで、一部分については肯定的に捉えているのかもしれません。しかし、サラリーマンという自分自身を完全肯定しているようにも思えません。
またこの歌で気になるのは、どこで切って読めばいいのかということです。
三句の「あるやうな」、四句の「冬空の下に」はつながっているのでしょうか、それとも三句で軽く切れる読み方をすればいいのでしょうか。
もし「あるやうな」が「冬空の下に」にかかるのであれば、「生まれ変はつてもサラリーマンであるやうな冬空の下」とは一体どんな冬空なのか、いまひとつ想像できません。
一方「あるやうな」で軽く切れると思って読むとわかりやすいように思います。サラリーマンは今も今後も生まれ変わったとしてもずっと続いていくのだろうなあという思いが、冬空の下にバスを待っている景に浮かび上がってくるようです。
もちろん三句と四句は全くつながっていないわけではありませんが、そのつながりは弱いつながりと見た方がよく、「サラリーマンであるやうな」が直接的に「冬空の下に」にかかってくると捉えない方が広がりが生まれるのではないかと感じます。
バスを待つひとりの人物の哀愁がこの先ずっと続いていくのではないか、そんなことを感じとても印象深い一首です。