秋だけど春を感じる風の中いまだ世界に慣れてはいない
笹川諒『水の聖歌隊』
笹川諒の第一歌集『水の聖歌隊』(2021年)に収められた一首です。
日本には四季があり、一年間という時間の経過において、春夏秋冬で区切って考えたり意識したりすることはごく自然に行われているのではないでしょうか。
特に季節の変わり目では、より一層季節というものを感じます。
さて掲出歌は、「秋だけど春を感じる」と詠い出されています。夏と冬の対比に比べ、春と秋はどちらかといえば近い関係があり、暑すぎず寒すぎず過ごしやすい季節という点では共通しているでしょう。
しかし、春と秋は同じではありませんし、それぞれがもつイメージも異なります。
一生を春夏秋冬に喩えるならば、春は芽生えや息吹き、また成長の初期段階のイメージがありますが、秋は実りの収穫や成熟期といったイメージがあります。
この歌の「秋」を人生の成熟期になぞらえるとすれば、ある程度年齢を重ねた成熟期の段階でも、いまだに成長の初期段階である「春」の風を感じてしまうというふうに捉えることもできるでしょう。
そう考えると「いまだ世界に慣れてはいない」が広がりをもってくるのではないでしょうか。
秋を秋と感じられずに春を感じてしまうのは、いつまで経っても季節感に慣れていないことを示しているとともに、年齢を重ねてもいまだに成熟していない若い頃の感覚をもったままということも表しているのでしょう。
主体は「世界」に慣れたいのでしょうか、それともいつまでも慣れない状態のままを望んでいるのでしょうか。
この歌からは、無理に慣れなくてもいい、ありのままでいい、そんな声が聞こえてきそうな気がします。
世界に慣れるのがいいことなのか、そうではないのか。成長していくということは、この世の中をうまく生ききるように考えられがちですが、果たして本当にそれだけが正しい考え方なのでしょうか。
このような問いを自分のこととして改めて考えさせられる一首です。