ひとりなり。一夏の読点として階段にひいやりと座れば
駒田晶子『銀河の水』
駒田晶子の第一歌集『銀河の水』(2008年)に収められた一首です。
「ひとり」を最も感じるときは、どんなときでしょうか。
掲出歌は初句でいきなり「ひとりなり。」と句点で締められたところから始まります。主体は一人を感じているのですが、それは「階段にひいやりと座れば」という状況において、一人をひしひしと感じているのでしょう。
「ひいやり」とあり、階段の冷たさが臀部に伝わっているのでしょうか。臀部の冷たさに意識が向くということは、そのときに、臀部の冷たさ以外に意識を向けるもの、あるいは意識を向ける誰かが、その場にはいなかったのだと思います。
階段に座ったときに、自分の意識がどこに向くのか、それが階段の「ひいやり」であったというところに、一人に寂しさのようなものが滲み出ているのではないでしょうか。
「一夏の読点として」という表現が、やや着飾った言葉のようにも感じられますが、工夫の凝らされた表現であり、この歌において欠かせない一部分となっているのでしょう。
夏という時間的にも空間的にも大きな存在を示し、自分をその中の「読点」であると詠うことで、その対比によってより一層「ひとりなり。」が活きてくる、そんな印象を覚えます。
さて、「ひとりなり。」の「ひとり」は孤独を指しているのでしょうか、それとも孤立を指しているのでしょうか。
孤独と孤立は違うものだと思います。孤独は心の内に抱えているものであり、生きていく上で孤独が必要な場合もあります。誰かと一緒にいても、孤独を抱えているという状況はあるでしょう。
しかし、孤立はとても苦しいものだと思います。孤立は心の状況ではなく、外的な状況において一人になってしまっていることだからです。
この歌の「ひとりなり。」には、孤立のような悲愴な印象はあまり感じられません。それは「ひとりなり。」という表現が、捉え方によってはきっぱりとした物言いのように感じられるからではないでしょうか。夏との対比で自分を見つめる余裕のある点も、影響していると思います。
主体は、「ひとりなり。」を心の底から、残念がっているようには思えません。むしろ、「ひとりなり。」によって、どこか清々しい気持ちにさえなっているのかもしれません。
夏の一場面について、読めば読むほど色々と想像がふくらむ一首です。

