とは言えど走って走って走り抜く若さ眩しと思うときあり
三枝昻之『遅速あり』
三枝昻之の第十三歌集『遅速あり』(2019年)に収められた一首です。
「若さ」とはまぶしいものなのでしょうか。
年齢的にもう若くないと自分が感じたとき、そこから見える「若さ」とはまぶしく見えるものなのかもしれません。あるいは「若さ」というとき、まぶしいものであってほしいという思いがあるのかもしれません。
そのまぶしさはどこから生まれるのでしょうか。「走って走って走り抜く」、その姿からきっと生まれるものなのでしょう。そうであれば、年齢的に若くなくても、走って走って走り抜く姿を保ちつづけることができれば、その人はまぶしい状態であるといえるかもしれません。
ここでふと、次のフレーズを思い出しました。
青春とは人生のある期間ではなく、
心の持ち方を言う。サムエル・ウルマン「青春」(『青春とは、心の若さである。』)
若さや青春を年齢的なものとして捉えてしまうのは、もったいないのではないでしょうか。
心の持ち方、走り抜く姿は、年齢を超えた「若さ」を示すでしょうし、まぶしいものでしょう。
掲出歌の初句に戻れば、「とは言えど」とあります。初句としてインパクトのある入り方ですが、「とは言えど」の前には何も置かれていませんので、何に対してなのかは想像するしかありません。
主体の今の立ち位置から見ると、若さというのは勢いだけは優勢であるが、やや甘く映るところがあるのかもしれません。しかし、「走って走って走り抜く」姿は、今の自分にはできないものであり、まぶしく映るのでしょう。
この「若さ」は誰か他人を見てそう感じているとも採れますし、かつての自分というふうにも採れると思います。
走って走って走り抜くことをしなくなった位置から見えるもの、それはしなくなったがゆえに、あるいはできなくなったがゆえに、まぶしく見えるものなのではないでしょうか。

