夕闇に紛れゆくときゐなくてもゐてもゐなくてもよいわれとはなりぬ
大室ゆらぎ『夏野』
大室ゆらぎの第二歌集『夏野』(2017年)に収められた一首です。
「夕闇に紛れゆく」という状況において、ひとりの人の存在は、夕闇を前にしてはあまりにも小さいものかもしれません。
紛れるという時点で、夕闇に吸い込まれていってしまう、そんなイメージが浮かんでくるのではないでしょうか。
注目したいのは三句以降です。「ゐなくてもゐてもゐなくてもよいわれとはなりぬ」からは、人の存在とは何かを問われているように感じます。
まず「ゐなくても」で始まり、「ゐても」と続き、再び「ゐなくても」が登場します。「ゐてもゐなくても」だけであればよく耳にするフレーズかもしれませんが、ここでは「ゐなくてもゐてもゐなくても」であり、「ゐても」が1回に対して「ゐなくても」が2回表れているのです。
したがって、どちらかといえば、”いる”方ではなく、”いない”方の自分に比重がかかっているように感じます。それは「夕闇に紛れゆく」に呼応しているでしょう。
しかし、単にいなくなって自身の存在が薄れてゆくだけなのかといえば、どうもそうではなさそうです。
「われとはなりぬ」という結句からは、夕闇に紛れていきながらも、どこか「われ」の存在をしっかりと意識している主体がいるように感じられるのではないでしょうか。特に「とは」の「は」がその際立ちに一役買っているように思うのです。
例えば”われとなりぬ”と「われとはなりぬ」を比較してみると、掲出歌の結句表現の方が、「われ」の輪郭がより立ち上がってきて、「われ」に対する意識の強さがより一層表れているように思います。そこには客観的に「われ」を見つめる視点が介在しており、その視点が冷静に「われ」の存在を捉えているといえるでしょう。
「ゐなくても」「ゐても」「ゐなくても」ときて、最後には「われ」が表れるという流れであり、”いない”方に焦点が当たりそうにはなっているのですが、そんな中でも「われ」の存在が残り続ける、そのような印象を受ける歌だと感じます。
「ゐなくてもよいわれ」と詠われながらも、その奥には「ゐても」「よいわれ」が常にそこにいる、そんな一首なのではないでしょうか。

