時が止まればいい さう思はなくなつてずいぶん歩いてしまつた
大森益雄『歌日和』
大森益雄の第三歌集『歌日和』(2013年)に収められた一首です。
生きている今この瞬間が最高に幸せだという思いに満たされていれば、自然と「時が止まればいい」と感じるのではないでしょうか。
「時が止まればいい」と感じるのは、特に愛する誰かと一緒にいるときかもしれません。
愛する誰かとのつながりがずっと続くとしても、日常という日々の中で時間が流れていけば、一時的には別々の場所で別々の時間を過ごすときが出てくるでしょう。
この瞬間がいつか終わりを迎える時間がくることがわかっているから、そして今この瞬間がとても素晴らしい瞬間であればあるほど、なおさら「時が止まればいい」と強く願うのだと思います。
その強い願いとは反対に、一字空けの後に「さう思はなくなつてずいぶん歩いてしまつた」が展開されていますが、その落差がこの歌の持ち味でしょう。
あとがきによると、『歌日和』には著者52歳~63歳までの歌が収められています。その年代になって「時が止まればいい」と思っていた過去を見つめ、そして「さう思はなく」なった現時点を見つめているのです。
「ずいぶん」にその時間的な長さ、そして「時が止まればいい」と思っていたときから、そう思わなくなったときまでの心の変化がよく表れていると感じます。
“歩いてきた”ではなく「歩いてしまつた」とあり、これまでの人生の道のりのすべてが自らの意思通りに進んできたかどうかといえばそうではないかもしれません。その意味では全肯定できるものではないにしろ、一方でここまで時間を積み重ねてきたことに対しては、自分自身を肯定してもいいのではないかという部分が窺えます。
「時が止まればいい」と思わなくなったことが、寂しいと悲しいとかいうことではなく、膨大な時間の流れの中においては、そう思わなくなるという変化はむしろ当たり前のことなのではないでしょうか。
一時の情熱のようなものはだんだんとなくなっていったのかもしれませんが、その分人生を広く見つめる厚みのようなものがだんだんと表れてきたのかもしれません。
長い時間を積み重ねてきたからこその表現に深みを感じることができる一首だと思います。