「わたしそこはこだはつてないから」と言ふときのこだはりをこそ恐怖と思へ
勺禰子『月に射されたままのからだで』
勺禰子の第一歌集『月に射されたままのからだで』(2017年)に収められた一首です。
“こだわる”というとき、いい意味で使われる場合と、どちらかといえばあまりよくない意味で使われる場合があります。
いい意味で使われる場合は、妥協なく徹底して追求するという意味合いでしょうし、反対にあまりよくない場合は、あることを必要以上に気にするといった意味合いで使われることが多いでしょう。
掲出歌はそんな「こだはり」を取り上げた歌です。
ここでは、あまり歓迎されない方の意味合いとして、拘泥するという意味での「こだはり」を捉えていると思います。
初句二句の「わたしそこはこだはつてないから」というフレーズは、一度や二度ならず聞いたことがあるのではないでしょうか。
「わたしそこはこだはつてないから」とはっきりということ自体が、すでに「こだはつて」いるということを示しているでしょう。その発言自体を「こだはり」だとこの歌は断定しているわけですが、その「こだはり」を「恐怖と思へ」と締めくくられています。
「わたしそこはこだはつてないから」といっている人自身は、自分がこだわっていないと思っているわけですが、その発言自体がこだわりの表れでしょうし、周りからみれば、やはりこだわっているというふうに捉えられることが多いのではないでしょうか。
こだわっていないということに対する拘泥こそが「こだはり」であり、それを当の本人は気づいていないということこそが「恐怖」そのものといっていいのでしょう。
「わたしそこは」の「わたし」や「そこは」といった限定さえも、より「こだはり」を増長しているようにも見えてきます。これらの言葉はない方が、まだ「こだはり」が少ないように思えますが、限定があることでより一層「こだはり」度合いが増しているように感じます。
結局、この歌における「こだはり」は何に対しての「こだはり」なのかは明確にされていませんが、その分あらゆる場面に適応可能な一首になっていると思います。
「こだはり」は人それぞれですし、だからこそ他者の「こだはり」が気にかかってしまうのかもしれません。
「こだはり」とは何なのか、あるいはこの歌自体でさえもある種の「こだはり」に足を踏み入れているのではないか、そんなさまざまなことを考えさせてくれる一首で、印象に残ります。