われら明日はなに見るならむひたひたと「時」の渚を波打ちつづく
雨宮雅子『昼顔の譜』
雨宮雅子の第八歌集『昼顔の譜』(2002年)に収められた一首です。
一般的な時間の捉え方では、昨日、今日、明日というふうに時間が流れていくわけですが、明日何が起こるのか、それを事前に知ることは中々に難しいことではないでしょうか。
「われら明日はなに見るならむ」には、まさに明日何が起こるのかわからないという不安はもちろんあるでしょうが、それだけではなく、明日どんな素敵なことが待っているだろうという期待も含まれていると思います。
「「時」の渚」という独特の表現が登場しますが、この表現が掲出歌を特徴づけているひとつの要因でしょう。
人生を長い時間の流れと見た場合、生きている瞬間は常に時間の最前線にいるでしょう。それは過去でもなく未来でもなく、”現在”という位置づけです。その最前線のことを、この歌では「「時」の渚」と表現したのではないでしょうか。
波が寄せては返す渚を、時間という目に見えないものに重ねた表現でしょう。
「「時」の渚」において、つまり時間の最前線、すなわち”現在”においては、人生のイベントは定まっておらず、揺れながら常に人生が進んでいくといったイメージではないかと思います。
その不確実、未確定な様が、人生そのものであり、今この瞬間を生きているということなのではないでしょうか。
明日何が起こるのか、それがすべて前もってわかってしまえば、確実で失敗のない人生になるかもしれません。しかし、そのように前もってわかる人生は本当に面白いのでしょうか。
わからないからこそ、不安も期待も含めて面白いのではないでしょうか。
わからない明日を見ることに対して、主体の気持ちは決して後ろ向きではないでしょう。「「時」の渚に波打ちつづく」様子を、主体は肯定的に受け入れているのではないかと感じます。
渚のイメージと人生の時間のイメージが重ね合わさり、どこまでも続く時間に思いを馳せることができる歌で、印象に残る一首です。