深夜ラジオの天気予報を聴きをれば今日はたしかに昨日のつづき
小川真理子『母音梯形』
小川真理子の第一歌集『母音梯形』(2002年)に収められた一首です。
日付が変わる前後に、深夜ラジオを聞いていた場面でしょう。内容は天気予報です。
天気予報といえば、その日一日の天気がどうなるかを知りたいために確認することが多いので、朝起きて見たり聞いたりすることが多いでしょうし、朝の情報番組やニュースでも天気予報のコーナーが設けられていると思います。
朝知った天気予報は、知ったその日の天気を指していることは明らかで、いつの天気であるかをあまり疑うことはないでしょう。
しかし、掲出歌では、深夜に天気予報を聞いたことにより、ある気づきがもたらされています。
それは「今日はたしかに昨日のつづき」という点です。
このラジオの天気予報がいつの天気を指していたのかはわかりませんが、日付が変わる直前であれば、それは日付が変わる前の「昨日」の天気かもしれませんし、日付が変わった後の「今日」の天気を指していたのかもしれません。
ただし、予報ですから、通常は未来の情報が提供されるので、この歌でいう「今日」の天気予報がおそらく流れていたのだと思います。
天気には日付のような一日一日という区切りはなく、ずっと続いていくものです。一方日付は、昨日、今日、明日というように24時間区切りで、午前0時に次の日に移るという取り決めになっています。
日々生きていく時間は、本来つなぎ目のないシームレスなものですが、便宜上、人は時間単位や日単位という区切りを導入しています。この単位によって、日を区切って捉えていますが、元々「昨日」と「今日」は滑らかにつながっているものなのです。
それが「今日はたしかに昨日のつづき」という言葉となって表れたのでしょう。
それは時間的につながっているという点はもちろん、その日の起こった出来事やその日に考えたこと、これからどうしていきたいのかということなど、すべてが昨日から今日へつながっているということだと思います。
日付が変わったからといって、昨日のことをすべてリセットして消し去ってしまうことは難しいでしょう。やはり「昨日のつづき」としての「今日」なのだと思います。
天気という切れ目のない事象に端を発して、日々生きている時間に対する区切りと継続に焦点を当てた、興味深い一首だと感じます。