先輩は碁を打ちながらメントスを頰ばっていてとても神様
柴田葵『母の愛、僕のラブ』
柴田葵の第一歌集『母の愛、僕のラブ』(2019年)に収められた一首です。
今の日本で囲碁を打つ人は一体どれくらいいるでしょうか。そのうち、囲碁で、勝負の最中にメントスを頰ばりながら打つ人は一体どれくらいいるでしょうか。あまり多くはないでしょう。
この歌は「碁」と「メントス」という取り合わせが斬新で、伝統ある囲碁のイメージを変えるような歌だと思います。伝統あるといっても、もちろん江戸時代のような格式ばった感じは最近は見られず、誰でも希望すれば囲碁を打つことはできるでしょう。街には、碁会所や囲碁サロンのような場もあり、訪ねればひとりでもいつでも囲碁を打つことができる環境は整っています。ただ、碁会所でメントスを頬ばりながら打っていると、あまりいい顔はされないかもしれません。
掲出歌ですが、何となく碁石とメントスの形状も似ているように思えてきます。碁石をもつ指先と、メントスを頬ばるときにつまむ指先は、同じもち方なのでしょうか。そのあたりも想像し出すときになってしかたありません。
さて、メントスを頰ばって碁を打っているのは「先輩」です。その先輩は「神様」と詠われているのです。
だた、この「神様」という表現ですが、どのあたりが神様なのかというのはなかなか捉えるのが難しいようにも思います。「先輩」「碁を打つ」「メントスを頰ばる」など様々考えられますが、どれも単体では「神様」というだけの存在や行為ではないように感じます。しかし「先輩」×「碁」×「メントス」の掛け算になれば、この状況というのは非常に稀な状況であり、その状況こそが「神様」といわしめたのではないでしょうか。
また「とても神様」の「とても」という表現が挿し込まれているところも、歌の流れに変化が生まれているように思います。「神様みたい」といった収め方ではなく「とても神様」なのです。「先輩」×「碁」×「メントス」の状況をより一層「神様」へ近づけていると感じさせる表現です。
ただの好意とも、愛情とも、敬意とも、何とも限定できないような感情がこの歌には込められているように感じます。ただし詠われている状況が「神様」であったということは確かであり、その思いこそがこの一首が生まれた源であるのでしょう。
状況が示されてはいますが、細部がはっきりと描かれていない歌であり、神様といわしめた意図のようなものは読み手の想像に委ねられているところはあるでしょう。しかし、一度読むと忘れられないとても気になる一首です。

