エレベーター上へ上へと進みゆき下ばかり見る君と私は
川島結佳子『感傷ストーブ』
川島結佳子の第一歌集『感傷ストーブ』(2019年)に収められた一首です。
この歌に登場するエレベーターが、シースルーエレベーターなのか、それともいわゆる通常のエレベーターなのかで随分と様子が変わってくるのではないでしょうか。
まずシースルーエレベーターだとした場合、エレベーターが上へ上がっていけばいくほど、エレベーターの外に見える地上はどんどんと遠ざかっていくでしょう。その地上付近をずっと見ていた様を「下ばかり見る」と表現したとすれば、確かに状況はよくわかります。
しかし、ここでは”シースルー”とは書かれていませんので、シースルーではない通常のエレベーターと採ってみたいと思います。
そうすると、「君と私」はなぜ「下ばかり見る」のかというところがポイントになってくるでしょう。
エレベーター内部の下といえば、エレベーターの床でしょうが、特に目新しいものではありませんし、見続けて楽しいものでもないでしょう。
エレベーターの中に見知らぬ人々といると、視線のやり場に困る場合もあるでしょう。閉鎖空間であり、体と体の距離が近いため、あまりじろじろと他者を見つめることは遠慮されるケースが多いのではないでしょうか。大抵はエレベーターの階数表示ランプを見たり、俯いていたりということになると思います。
掲出歌でももちろんそういう事情はあるでしょうが、ここで焦点が当たっているのは「君と私」です。同時に乗り合わせた他の人々との関係で下を見ているというよりも、君と私の関係性において下を見ているのだと感じます。
つまり、君と私はエレベーターで移動しているとき、互いに「下ばかり見る」ような関係性であるということを示しているのではないでしょうか。
エレベーターにおいて、互いに向き合って顔を見つめたり、小声で話しあったりするような関係ではないのかもしれません。あるいは、このときは何か特別な事情により、上を向くような気分ではなく、終始下を見ている状況だったのかもしれません。
上と下を対比して捉えてみれば、「上へ上へ」はプラス方向に感じられるのに対して、「下」はマイナス方向に感じられますが、この対比も「下ばかり見る」の強度を強めているように感じます。
エレベーター内部という閉鎖空間における上下の対比が、「君と私」の内面までも表現しているような、そんな一首なのではないかと思います。
