街中に出でて思へば今ごろは人在らぬ無数の家の空間
花山多佳子『空合』
花山多佳子の第五歌集『空合』(1998年)に収められた一首です。
街中へ出たときに、人の多さを感じたのかもしれません。街中に人が集まっているということは、本来いるはずの家に、人がいないということを意味します。
実際は、一人暮らしだけではなく、家族で住んでいる人もいるでしょう。そして、この街に住む全員が外出しているというわけではありません。家族がいれば、その家族全員が外出しているとも限りませんし、ひとつの家族のうちでも外出している者もいれば、家にいる者もいるでしょう。ですから、無人の家ばかりになったというわけではありませんが、街中の人の多さは、「無数の家の空間」に人を存在させないほどの力強さをもって、主体に迫ってきたのではないかと思います。
この街、もっといえば日本中には無数の家が存在します。たとえば、ひとつひとつの家について、家族全員が外出するということは、その無数の家を「人在らぬ」状態にすることと同じであり、家に人がいる状態と外出の状態を両立させることはできないのです。
いわれてみれば当たり前のことですが、街中に出て人が多いなあと感じることはあっても、そこで思考は止まってしまうのが通常でしょう。しかし、この歌はそこに留まらず、「人在らぬ無数の家の空間」を想像しているのです。そこにこの歌の魅力があり、同時に、不在の家の空間の不気味さが際立ってくるのではないでしょうか。
家というものは、人が住むためのものであり、人がそこにいるから家だと思いますが、不在の家の空間、しかもそれが「無数」となれば、いよいよもって怖ろしい感じがしてこないでしょうか。
“在”から”不在”を思う視点が活きた歌で、印象に残る一首です。



