酢のなかに無数の小さき眼がありてある夜またたきながら殖えゆく
河野美砂子『無言歌』
河野美砂子の第一歌集『無言歌』(2004年)に収められた一首です。
酢は、日常の料理に使われるほか、健康のために飲む酢というものも色々と登場しています。
掲出歌は、酢を詠った歌ですが、それは調味料や飲料としての酢ではなく、何か怖ろしい存在としての酢が立ち上がってきます。
「無数の小さき眼」」とは何でしょうか。酢に立った気泡のようなものを、無数の小さき眼と表現しているのかもしれませんが、ここではそのような比喩としての眼ではなく、「無数の小さき眼」という表現のまま、つまり実際の眼を思い浮かべながら、受けとった方がいいように思います。
そして、小さき眼は無数であるにも関わらず、さらにその状態から「殖えゆく」のです。
「またたきながら」からは、無数の眼がまばたきをしている様子が浮かんでくるでしょう。ひとつまたたくことに、また別の眼が生まれていく、そんなイメージではないでしょうか。眼はどんどん新たな眼を生み出していくのです。
すでに存在していた眼が消えていくことはあるのでしょうか。もし消えていかないのであれば、酢の中は小さき眼でどんどんとあふれていく一方になるでしょう。とはいっても、元々無数である眼は、殖えていってもやはり無数であることには変わりはないかもしれません。
さて、そのような無数の眼を感じてしまう主体の心の状態は一体どのようなものなのでしょうか。なぜ酢の中に無数の小さき眼を見てしまうのでしょうか。
この歌の怖いところは、無数の小さき眼がまたたく度に殖えていくことよりも、そのような眼を酢の中に捉えてしまう主体の理由がわからないところにあるのかもしれません。
酢という日常でよく使われるものが、日常を離れてその存在感が示された一首ではないでしょうか。