砂時計のあれは砂ではありません無数の0がこぼれているのよ
杉﨑恒夫『パン屋のパンセ』
杉﨑恒夫の第二歌集『パン屋のパンセ』(2010年)に収められた一首です。
砂時計という名は、砂を利用した時計であることから名づけられたと思いますが、この歌では「砂時計」について、流れ落ちているものを「あれは砂ではありません」といきなり否定されています。
砂が落ちていないとすると、一体何が落ちているのでしょうか。その答えは下句であっさりと明かされています。なんと砂ではなく、「無数の0」がこぼれていると詠われているのです。
こぼれ落ちているものが砂であれば、何のひっかかりもなく、何の疑問ももたず、そういうものかと受け入れてしまうでしょうが、「無数の0」といわれると途端に立ち止まらざるを得なくなるでしょう。
「0」とは一体何なのか、なぜ砂時計の中に「0」がこぼれているのか、そもそも「0」とは概念であって、実体をもった物質ではないのではないか、など色々な疑問が湧きおこってきます。
「0」はインドで発見されたとされていますが、「0」の発見は人類にとって非常に大きな発見となりました。何もない状態、すなわち”無”と等しい「0」ですが、この歌において「無数」の「無」とも呼応します。
「無数」が極限であれば、「0」も特殊な位置づけの概念であり、「無数の0」という表現は何か両極を同時に表している、そんな特別なイメージが浮かんでくるのではないでしょうか。
なぜ「無数の0」が砂時計という閉ざされた空間をこぼれ続けているのかはわかりません。「無数」であれば、終わりが来ないようにも感じますし、また「0」であれば、そもそもそこに何もない状態が永遠に続いているようにも感じます。
この歌から伝わってくるのは、時間の不可思議さのようなものです。この歌における時間は途切れることなく、ずっとどこまでも続いていく時間のように思われますし、同時にその時間というのは、何か質量や重みをもったものではなく、非常にフラットで均一なもののようにも思います。
砂時計を落ちるものを「砂」ではなく、「無数の0」と見るとき、われわれが意識していなかった時間の本質のようなものが滲み出てくるようにも感じます。
この歌の意図がはっきりと読み取れているとは思いませんが、「無数の0」という表現に惹かれるとともに、何度も何度も「無数の0」について考えてみたくなる、とても不思議な魅力を湛えた一首だと思います。