高層の無数の窓に見下ろされ信号無視の一歩踏みだす
中津昌子『風を残せり』
中津昌子の第一歌集『風を残せり』(1993年)に収められた一首です。
「高層の無数の窓」とは、高層ビルの窓を指しているのでしょう。
外壁面が窓に覆われたような構造だと思いますが、ひとつの高層ビルの窓を詠っているわけではなく、複数の高層ビルの窓を指して「高層の無数の窓」と表現されていると思います。
そのような無数の窓のある場所、都会のオフィス街が思い浮かびますが、具体的にはオフィス街の交差点が歌の場面になっているでしょう。
主体は、無数の窓をもつ高層ビルが立ち並ぶオフィス街で働いているのでしょうか。「信号無視の一歩踏みだす」が、慌ただしい日常を端的に表しているように感じます。
歩行者においても、信号無視は罰則が科される場合がある行為ですが、ここでは主体は信号無視であることを充分認識しながら、一歩を踏み出していることが見てとれるのではないでしょうか。主体ひとりが信号無視をしたわけではないかもしれません。多くの人々が、信号が赤であることをわかっていながら、渡っている状況がこのときあったのでしょう。主体にとってもそうせざるを得ないなにがしかの状況があったのかもしれません。
ここで再び上句に注目すると「高層の無数の窓に見下ろされ」とあり、信号無視の一歩はまるで無数の窓に監視されているように感じられます。無数の窓のひとつひとつは監視の目のように浮かび上がってくるのではないでしょうか。
信号無視の一歩にどこか後ろめたい思いがあったのでしょうが、その思いが無数の窓をただの無機質な窓に終わらせないようになっています。
高層の無数の窓は、これまでもその場に起こり得る数々の出来事をさまざまに映しとってきたのかもしれません。そしてこれからもひとりの人間の小さな行為をも映していくことでしょう。
高層の無数の窓の存在が際立っている一首だと思います。