けふの疲れに軀はしづみざらざらと無数の星に覆はるる夜
横山未来子『水をひらく手』
横山未来子の第二歌集『水をひらく手』(2003年)に収められた一首です。
初句二句の「けふの疲れに軀はしづみ」は軀の疲れを詠っているのですが、その表現には丁寧に注目する必要があると思います。
“疲れが軀にしづみ”ではありません。「疲れに軀はしづみ」なのです。沈んでいくのはどちらなのか、この歌では疲れではなく軀が沈んでいっているのです。
疲れと軀を比較した場合、一般的なイメージとしては、疲れは軀の枠を越えないように思います。つまり、軀の内側に疲れは生まれると捉えがちですが、この歌ではそうではなく、軀の外側に疲れの空間が広がっている、そんなイメージが展開されているのではないでしょうか。
続く「ざらざらと」は、上にも下にもかかる言葉として機能していると思います。疲れに沈む軀の様が「ざらざらと」いう手触りで感じられ、また同時に「無数の星」が夜空に広がる様子も「ざらざらと」したイメージをもって迫ってくるように感じられるのではないでしょうか。
ここで詠われている無数の星は、満天の星で美しい夜空といったものではなく、どちらかといえば、怖れや生そのものを意識させるものとして捉えられているように感じます。それは「けふの疲れに軀はしづみざらざらと」という上句による影響が大きいでしょう。
この一首が収められた一連の題は「砂」であり、「ざらざらと」や「無数の星」には砂のようなイメージが重ね合わされているのかもしれません。
自身の軀と無数の星、ひとりの生命と壮大な宇宙との一体感のようなものも感じられる歌で、印象に残る一首です。