紙コップのコーヒー売られあるためにここに宇宙を感じずにすむ
花山周子『屋上の人屋上の鳥』
花山周子の第一歌集『屋上の人屋上の鳥』(2007年)に収められた一首です。
「富士登山」と題された一連にある歌で、山頂でご来光を眺めてしばらくして詠まれた場面だと思います。
富士山頂で紙コップのコーヒーが売られていたということでしょうが、その出来事ゆえに「ここに宇宙を感じずにすむ」と主体は感じているわけです。
地上であれば、紙コップのコーヒーが売られていることは当たり前のことすぎて、それに対して特に疑問をもつこともなければ、意識することもないと思います。
しかし、それが富士山の山頂であれば話は別です。いわば非日常の場面において、日常によくある出来事に遭遇すると、その出来事そのものを自ずと意識してしまうものではないかと思います。
つまり、普段はあまり意識しない紙コップのコーヒーが売られていることに、富士山頂では意識が働いたのです。しかし、それは特異なことというよりも、日常が非日常の空間に置かれているといった状況ではないでしょうか。
通常であれば「宇宙を感じ」てしまうような富士山頂の非日常において、「紙コップのコーヒー」という日常が紛れ込んでいるために、主体は「宇宙を感じずにす」んだのです。
そう何度も味わうことのできない富士山頂という場面ですから、宇宙を感じてもよさそうですが、主体はかなり冷静な目で自身の置かれた状況を把握しているように思います。
この歌の言葉を追えば、主体は宇宙を感じたいとは思っておらず、宇宙を感じることを拒否しているようですが、その一方でどこか宇宙を感じてみたかったという思いもあるのではないかと感じます。
もし紙コップのコーヒーが売られていなければ宇宙を感じていたかもしれず、紙コップのコーヒーが売られていることに対する、何となくしっくりこない感じを抱いているようにも読めるからです。
紙コップのコーヒーと宇宙を一首に盛り込んだ歌というのはめずらしく、非日常の体験から生まれた印象に残る一首です。