チョコレートの歌 #7

当ページのリンクには広告が含まれています。
チョコレートの短歌

キットカットのかけらを運んでゆくぼくは蟻だとおもう蟻だあねぼくら
斉藤斎藤『渡辺のわたし』

斉藤斎藤の第一歌集渡辺のわたし(2004年)に収められた一首です。

「キットカット」(KITKAT)は、ネスレから発売されている人気のチョコレート菓子です。ウエハースとチョコレートのコンビネーションが美味しく、何度も食べたくなるお菓子です。

さて、掲出歌では「ぼく」が「キットカットのかけらを運んでゆく」と詠われていますが、これはどのような状況でしょうか。テーブルや床に落ちている、キットカットの欠片をゴミ箱に捨てるといった場面を想像すればいいのでしょうか。

そんな欠片を運んでいく自分を「蟻」だと見ているのでしょう。実際、小さな欠片が地面に落ちていたとしたら、蟻が運ぶこともあるでしょう。

「蟻だとおもう」のところでの視点は、第三者からの視点として捉えているように感じます。つまり、欠片を運んでいる「ぼく」を、別の誰かの視点から俯瞰して見ているような感じでしょうか。

そして、結句の「蟻だあねぼくら」のところに至っては、第三者の視点から、再び自分自身の主体としての視点に戻っているのではないでしょうか。

「蟻だあね」の「だあね」も印象に残るでしょう。”だね”ではありません。「だあね」なのです。このたった一文字「あ」があるかないかによって、随分印象が変わるのではないでしょうか。まさに「蟻」だよということを強調づけるかのような「だあね」に感じられます。

「ぼく」から「ぼくら」への移行も注目すべきところで、自分のみならず、自分が属する社会の状況へ展開を広げていっているように感じます。

それにしても「蟻だとおもう蟻だあね」というように見つめる理由は何でしょうか。なぜ「ぼく」「ぼくら」を蟻だと思う必要があるのでしょうか。ここでいう「蟻」はいい意味で表現されているのでしょうか。それとも、よくない存在の意味として「蟻」が選ばれているのでしょうか。

「キットカットのかけらを運んでゆく」というのは、あるいは何かの喩なのかもしれません。「ぼく」や「ぼくら」を卑下するわけではないのでしょうが、どこか拗ねた感じもうかがえます。また諦観のようなものも感じられます。あるいは、揶揄するようなイメージでしょうか。

この歌が詠われた意図があまり見えませんが、「キットカット」という固有名詞を通して、「ぼく」「ぼくら」の複雑な思いが表れた一首なのではないでしょうか。

¥1,650 (2022/11/13 16:17時点 | Amazon調べ)

♪ みなさまの応援が励みになります ♪


俳句・短歌ランキング

ブログランキング・にほんブログ村へ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次