いびつなパンを焼き上げながらぼくに聞く火星をめぐる月の名前を
ユキノ進『冒険者たち』
ユキノ進の第一歌集『冒険者たち』(2018年)に収められた一首です。
「火星をめぐる月」とは何でしょうか。火星の周りを回る月を意味していますから、おそらく、火星の衛星を指しているのでしょう。
火星には、フォボスとダイモスという二つの衛星があります。地球でいえば”月”に当たるものですが、フォボスとダイモスは月のように丸くはなく、ごつごつとした形をしているようです。
掲出歌は、相手が「ぼく」に対して火星の衛星の名前を尋ねた場面でしょう。そして、尋ねた状況が「いびつなパンを焼き上げながら」なのです。
パンを焼いていたのは、相手か自分かどちらでしょうか。「焼き上げながら」「聞く」なので、一応相手がパンを焼いていたと採っておきたいと思います。もちろん相手と「ぼく」が一緒に焼いていた可能性もあるでしょう。どちらにしても、相手はパンを焼くことに参加していたと捉えたいと思います。
さて、相手はなぜ火星の衛星の名前を尋ねたのでしょうか。火星には衛星があるということ自体は元々知っていたことになるのでしょうが、衛星の名前だけが思い出せなかったのではないかと想像します。
また、相手は、火星の衛星がごつごつしていることも知っていたのかもしれません。そうであれば、「いびつなパン」を見ながら、ふと火星の衛星のイメージが浮かんできたのかもしれません。でも、名前は思い出せなかったのでしょう。ごつごつは知っているけど、名前を思い出せないとは、ありそうですが、あまり見られない場面かもしれません。
あるいは、相手は、火星の衛星がごつごつしていることを知らないまま尋ねた可能性もあります。尋ねたタイミングがたまたま「いびつなパン」を焼いているタイミングだったわけです。
その場合、相手は火星の衛星の形状は知らず、一方「ぼく」の側は、火星の衛星がごつごつしているのを知っており、「ぼく」の側で、「いびつなパン」と火星の衛星のイメージとが重なっていったと考えられるでしょう。
「いびつなパン」と「火星をめぐる月」の形状との結びつきは、状況的にできすぎているといえばできすぎていますが、そのイメージの重ね合わせこそが、この歌のキーポイントなのだと思います。
この一首は、「いびつなパン」を焼いていることと、「火星をめぐる月」の名前が思い出せないことが重なることで、そこに新たなイメージが生まれ、読み手に新たな認識を手渡してくれる歌となっているのではないでしょうか。


