メロンパンだつた破片をテーブルの隅に集める冬のつとめて
田村元『昼の月』
田村元の第二歌集『昼の月』(2021年)に収められた一首です。
「つとめて」は早朝の意味で、冬の早朝の場面を詠っています。
メロンパンというのはとにかくぼろぼろと崩れやすい食べ物です。冬の早朝に、テーブルを見るとメロンパンの破片が散らばっています。昨晩食べたメロンパンか、あるいは出勤前の早朝に食べたメロンパンか、いずれにしても食べ終わった後のテーブルには、メロンパンの欠片が散らばっていたのでしょう。
メロンパンの欠片は、欠片になってもメロンパンのような気がしますが、「メロンパンだつた破片」と詠われることで、メロンパン本体から離れてテーブルに落ちてしまった”元メロンパン”はすでにメロンパンとは呼べないものであるという認識がこの歌から感じられます。
この歌を読むと、メロンパン本体から崩れ落ちたものに対して、どこまでがメロンパンと呼んでいいものなのか、そんなことをつい考えてしまいます。
テーブルの隅に集められた「メロンパンだつた破片」は、たとえたくさん集められたとしても、もう元のメロンパンには戻ることができないのでしょう。そしてそれゆえに、「メロンパンだつた破片」はもう二度と「メロンパン」と呼ぶことはできないのでしょう。
もし仮にこの歌の始まりが”メロンパンの破片”であれば、ここまでの思考には至らないと思います。つまり「メロンパンだつた」の「だつた」がこの一首においては、かなりの力強さをもった言葉として迫ってくるように感じます。
破片を集めているのは主体ですが、この歌における主体の姿はかなり薄い印象しかありません。それよりも「メロンパンだつた破片」の存在がクロースアップされ、テーブルの隅に集められた「メロンパンだつた破片」がいつまでも冬の早朝の中にあり続ける、そんな印象のある歌だと感じます。
メロンパンの破片しか詠われていませんが、「だつた」の効果によって、破片のみならず、食べる前のメロンパンのイメージも浮かんできます。
もうメロンパンとは呼べない「メロンパンだつた破片」のイメージと、そこから想起される崩れる前の完全なるメロンパンのイメージとが、同時に思い起こされる不思議さのある一首ではないでしょうか。