パンの歌 #20

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パンの短歌

白パンにバターとジャムを塗ることが幸せである行為 はつなつ
小島なお『乱反射』

小島なおの第一歌集乱反射(2007年)に収められた一首です。

白パンとは、ライ麦を使った黒パンに対して使われ、その名の通り見た目の白いパンです。

さて掲出歌は、そんな白パンに「バターとジャムを塗ることが幸せ」であるといっています。至福のひとときといったところでしょうか。

朝食の場面を思い浮かべてもいいでしょう。食卓には白パンがあり、好きなバターとジャムをたっぷりと塗っている様子、そしてそれをゆっくりと食べる時間を想像してみるだけで、読者もしあわせな気分に浸ることはできます。

しかし、この歌はどうもそのようにストレートに受け取りきれないところがあります。それは下句が「幸せである行為」という表現となっているからです。この表現が、この歌を特徴づけているのではないでしょうか。

「幸せ」で収めるのではなく「幸せである行為」とあえて「行為」という言葉が足されています。確かに、パンにバターとジャムを塗ることが幸せである、だけでは歌にならないかもしれませんが、「幸せである行為」といわれるとそれはそれで、わかったようなわからないような思いが生じてきます。

「行為」という一語があることよって、白パンにバターとジャムを塗っている自分を、もう一人の自分が外側から眺めているような客観的な視点を感じます。その点から「白パンにバターとジャムを塗ることが幸せである行為」は、「はつなつ」の定義として述べられているといってもいいのでしょう。

それは今この瞬間が幸せであるということよりも、「はつなつ」になれば毎年白パンにバターとジャムを塗ることを繰り返し、その行為そのものが「はつなつ」であり「幸せ」であるということなのかもしれません。

また「行為」という言葉がつくことで、パンにバターとジャムを塗ることを、無理やり「幸せである」といい聞かせているようにも感じます。

一般的にみれば、ここで詠われていることは「幸せ」であるのでしょうし、世の中のざまざまな悲惨な状況と比較してもきっと「幸せ」であるのでしょう。しかしその「幸せ」をすっとそのままストレートに受けきれない主体がいることも確かで、そのわずかな引っかかりが「幸せである行為」という表現に結びついているのではないでしょうか。

白パンは一旦バターやジャムを塗られてしまえば、もう元の白いままの白パンには戻れません。この歌には、そんな不可逆の状況に対する気持ちなども含まれているのかもしれません。

一見ストレートに幸せな時間を詠った歌かと思いましたが、どうもそうではなくいろいろと考えさせられる一首だと感じます。

白パン
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