どのときが思い出になるか知らずあと三キロを歩くと決めて
花山周子『屋上の人屋上の鳥』
花山周子の第一歌集『屋上の人屋上の鳥』(2007年)に収められた一首です。
思い出をつくるために生きているわけではありませんが、いい思い出ならたくさんあった方が人生楽しくなるのではないでしょうか。
掲出歌では、「思い出」というものを少し冷静に見つめている目を感じます。
思い出とは、後からそのときの体験を思い浮かべることです。その出来事が起こっているときにはまだ思い出としてのかたちを成しておらず、輪郭がぼやけていますが、年数が経過して後で振り返ったときに、そのときの出来事がいい思い出だったと感慨深い気持ちになるものだと思います。
ですから「どのときが思い出になるか知らず」というのは、まさにその通りだと感じます。
思い出は後から振り返るものですが、思い出の元となる体験をつくるのは、後ではなく”今”なのです。思い出がつくられるときと、思い出を振り返るときという時間的な二段階があり、ここに思い出のギャップがあるでしょう。
振り返るのは後でも、思い出となるためには”今”動くことが必要で、主体は「あと三キロを歩く」と決めたのでしょう。この「三キロ」は歩いても歩かなくても、どちらでもいい「三キロ」だったのかもしれません。そしてこの「三キロ」が将来思い出になるかならないかは、時間が経ってみないとわからないでしょう。しかし、その三キロを歩かなければ、そのときが思い出となる可能性はありませんが、歩くことによってその三キロの間に起こる出来事が思い出となる可能性があるのです。特段何かが起こらなかったとしても、歩いたという行為自体が思い出になる可能性も残されているでしょう。
冒頭で触れましたが、思い出をつくるために生きているわけではないと思いますが、ときにはこの歌のような視点をもつことが、新たな思い出を生み出すきっかけになるのではないでしょうか。
思い出の多い少ないというのは、いってみればこのような意識があるかないかの違いともいえるかもしれません。
また結句がいいさしで終わっていますが、この表現からはこれから歩いていこうとする姿が表れているように思います。もしも終止形で終わっていれば、決めて終わりといった印象が強く残りますが、この歌は「決めて」であるので、決めてそこから行動に遷る様子までが想像でき、時間的に広がりのある歌になっていると思います。
自らの足で前に進んでいこうとする姿を感じ、とても好感のもてる一首です。