グラサンに映る雲、虹、時雨、雪。なにもしないままの思春期が終わる
しんくわ『しんくわ』
しんくわの第一歌集『しんくわ』(2016年)に収められた一首です。
定義はひとつではありませんが、「思春期」とは小学校高学年から高校生に当たる時期、年齢でいえば概ね10歳から18歳頃までを指すことが多いようです。もちろん個人差はありますので、思春期が短い人もいれば、長い人もいるでしょう。
掲出歌は「なにもしないままの思春期が終わる」と詠われています。
人生はどの期間を切り取っても一度きりの期間であることは間違いありませんが、特に「思春期」が「なにもしないまま」終わってしまうのは一層寂しさを感じさせます。
それは、思春期がいろいろな可能性を秘めた時期であるように思うからです。後から振り返るとそう思うだけで、実際思春期の真っただ中にいるときは、そんなに余裕をもって俯瞰的に眺めることはできないかもしれません。
しかし、思春期を「なにもしないまま」終えるのは、貴重な期間を生かし切れなかったように感じてしまうものでしょう。
さて具体的なものとして「グラサン」が登場しますが、「なにもしないまま」の感じが「グラサンに映る雲、虹、時雨、雪。」によく表れていると思います。
「虹」は夏、「時雨」は秋から冬、「雪」は冬の言葉であり、この「雲」を春の雲と想像すれば、この四語で春夏秋冬を表していることがわかります。
つまり、サングラスに映っているのはこれら季節の流れであり、一年という時間が繰り返し淡々と流れていったイメージだけが広がります。短い表現の中に、時間の経過がとても効果的に詠われています。
サングラスに映るものとして、他者の姿は書かれていません。ただ自然の姿だけが映って流れていったのです。そこに、人との関わり合いがなかったか、あるいは少なかったことが窺われます。
生きていく上で人との関わりは避けて通れないものだとは思いますが、”なにかをした”と感じるのは、人とどれだけ関わってきたかという部分に大きく影響を受けるのではないでしょうか。
あるいは、何か特定の”モノ”や”コト”にどれだけのめり込んだか、執着してきたかといった度合いによって、”なにかをした”と感じるか感じないかは影響を受けるのかもしれません。
いずれにしても「なにもしないまま」というのは、人との関わりもモノやコトとの関わりも薄かったことが想起されるのです。
「雲、虹、時雨、雪」のリズミカルさに対して、下句は九音・八音の字余りとなっていますが、主体の後悔に近い思いが滲み出ているように感じます。
ただ、「なにもしないままの思春期」であったとしても、それは主体だけにしか味わえない思春期であったことも間違いないでしょう。他の人が全く同じ思春期を過ごすことはできません。そういう意味では「なにもしないままの思春期」もとても貴重なもののように思えてきます。
自分の思春期と重ね合わせて読むことで、より一層深みを増す一首となるのではないでしょうか。