コーヒーの匂いが残るエレベーターゆらりとわれは運ばれてゆく
中津昌子『風を残せり』
中津昌子の第一歌集『風を残せり』(1993年)に収められた一首です。
駅のエレベーターでしょうか、あるいは職場のエレベーターでしょうか。主体はエレベーターに乗り込んだのですが、そのときエレベーターの内部には「コーヒーの匂い」が残っていたのです。
「ゆらりと」とあり、ひょっとするとエレベーターにはほとんど人は乗っておらず、あるいは主体ひとりだったのかもしれません。もし満員のエレベーターであれば、「ゆらりと」という表現は似つかわしくないように感じるからです。
またコーヒーの匂いを感じるということは、視覚よりも嗅覚が優先しているような状況でしょうから、なおさら人は少なかったことが窺えます。満員であれば、コーヒーの匂いを気にするよりも、人との接触や境界線をどうするかをまず意識するでしょうから。
主体は、エレベーター内に残るコーヒーの匂いをいいものとして捉えているのでしょうか、それとも嫌だなと感じているのでしょうか。ここでは嫌悪感を抱いているようにはあまり感じられません。かといって、コーヒーの匂いが残っていることが大変よいというふうでもないでしょう。どちらかといえば、フラットな心境で、コーヒーの匂いが残っている状況をそのまま受け入れているのではないでしょうか。
このコーヒーの匂いは、エレベーターに乗っているときにだけ感じることができる匂いであり、昇降の間だけは主体とコーヒーの匂いは共につかず離れず移動していく様子が窺えます。
特に大きなイベントが起こる歌ではありませんし、日常のささやかな場面といえばそうなのですが、穏やかでゆとりのある感じがあり、何となく味わいのある一首だと思います。



