親不知四本を含みこの生は見えぬところで余分が育つ
澤村斉美『夏鴉』
澤村斉美の第一歌集『夏鴉』(2008年)に収められた一首です。
親不知は、正式には第三大臼歯といわれ、奥歯の一番奥に生えてくる歯です。これが生えると上下左右合わせて、口内には32本の歯をもつことになります。親不知と呼ばれているのは、親の保護を離れる10~20代に生えてくることが多いことからということです。
さて、主体も親不知が四本生えていることを意識した場面でしょう。もちろん歯は一日で生えてくるわけではなく、生えてきたことが徐々に認識できるわけですが、親不知はあってもなくても食事をするだけであれば、特段困ることはありません。ですから、意識しないと親不知が生えていることの恩恵または不都合は普段感じることは少ないでしょう。大抵は、痛み始めてから親不知の存在を気にしだすものではないでしょうか。
主体も親不知の痛みが出だしたのかもしれません。痛みが出てくると急に親不知が気になるものです。そして、別になくても困らないのになぜ生えてきたのか、そしてなぜ痛み出すのかと考えてしまうものです。「見えぬところで余分が育つ」と詠われており、ここに親不知は「余分」であるという気持ちが表れています。養分ではなく余分です。親不知はまさに「この生」において、いらないものとしての位置づけにされているようですが、これは何も主体に限った話でないのは、親不知を抜歯する人が多いことからも窺えるのではないでしょうか。
親不知が余分であるということはストレートに表現されていますが、この生における余分は親不知だけではないという点も見過ごせないところでしょう。「親不知四本を含み」の「を含み」という表現がそれを示しています。
生きていくことが完璧で効率的で、一切の余分がなければ、無駄のない人生だということができるかもしれません。しかし実際は、完璧ですべてがうまくいく人生というものは中々なく、成功もあれば失敗もあり、浮き沈みがあるのが人生というものだと思います。
自分の体や、もちものを見てみても、同じでしょう。健康で体調にまったく問題ないといえる人も少ないのではないでしょうか。所有しているものについても、一切無駄なものはもっていません、無駄な買い物もしていません、お金の使い方も最大限効率的で完全です、といえる人もそういないでしょう。
仮にそういえたとしても、果たしてそのような人生が豊かであるかどうかは一考の余地があると思います。「余分」があるからこそ、生まれる人生の幅というものがあるのではないでしょうか。
「見えぬところで余分が育つ」は、余分なものに対して不要という気持ちが強いことは間違いないでしょうが、単に全面的な嫌悪を示しているわけではなく、生きていれば、多少なりともそのような余分があるよなと受け入れているように感じるのです。あまりにも余分が多いと困るかもしれませんが、見えないところで余分なものができあがっていくことは、ある程度仕方がないという捉え方ではないでしょうか。また同時に、そのような余分が、よきにしろ悪しきにしろ、人生に起伏をもたらしてくれているという感じではないかと思います。親不知が生えてこなければ、親不知を通した「余分」はこの人生では味わうことはできなかったわけですから。
親不知という、まさに余分の極致のような具体例を出しながら、生という大枠における余分へと展開しているところ、そして余分に対する柔らかなまなざしに惹かれ、印象に残る一首です。



