白き紐耳より垂るる人はいてエッグサンドをうつむき食えり
島田幸典『駅程』
島田幸典の第二歌集『駅程』(2015年)に収められた一首です。
「白き紐」とはイヤフォンから伸びる白いコードのことでしょう。両耳にイヤフォンを嵌めて、音楽かラジオか、あるいは勉強のための英語の音声などを聴いているところが想像できます。
「白き紐耳より垂るる」は全部でわずか14音ですが、耳からイヤフォンのコードが垂れ下がっている様子を冗長にならず端的に表現していて、さりげないのですが、非常に表現の巧さを感じます。
さて、コードを垂らしながら、エッグサンドを食べているのですが、なおかつ俯きながら食べているのです。
エッグサンドを食べるとき、あまり上を向いて食べる人も少ないかもしれませんが、「うつむき食えり」と表現されることによって、改めて俯いている様子が読み手に再認識され、ただ単に「食えり」という場合と比べ、この人の輪郭が立ち上がってくるのではないでしょうか。
俯いていたのですが、何か悲しい出来事があったのでしょうか。この歌からは不思議とそのような印象は受けません。
そうではなく、イヤフォンを嵌めて音楽なり何なりを聴いていたから、その音に集中して、音の世界にどっぷりと浸っていたからこそ、「うつむき」だったのではないかと感じます。
この際、エッグサンドの味はしっかり味わわれていたのでしょうか。エッグサンドの味よりも、どちらかといえば音の世界への意識の方が勝っていたように感じられます。
「ながら食べ」という言葉を耳にすることがありますが、今回の歌もそのようなイメージで捉えるとわかりやすいのかもしれません。食べることよりも、今回は聴くことの方が優先されているのでしょう。
このときエッグサンドは脇役に位置づけられてしまうわけですが、この一首においては読めば読むほど「エッグサンド」という単語は妙に存在感をもって迫ってきます。イヤフォンを垂らしながら食べている人にとってのエッグサンドは脇役であったとしても、この一首におけるエッグサンドは、一首の中においては主役のような力をもっているように感じます。
つまり、食べている人の姿は背景に退いていき、エッグサンドの存在が徐々に前面に出てくるような印象があります。それは食パンでもなく、サンドウィッチでもなく、「エッグサンド」という響きをもった言葉の選択がなされていることが、そのように感じさせているのかもしれませんが、エッグサンドがずっとイメージに残り続ける、そんな一首なのではないかと感じます。
