ほのぐらき水族館に浮かびゐる無数の貌のなかのわが貌
小島ゆかり『憂春』
小島ゆかりの第七歌集『憂春』(2005年)に収められた一首です。
普段生活している中で、自分の顔を見つめる時間は一体どれくらいあるでしょうか。
朝起きて洗面台の鏡で見る、出勤前に鏡で見る、通勤電車の窓ガラスに映る顔を見る、などなど色々あると思いますが、日常に溶け込んでいて、じっくりと自分の顔と向き合う行為は少ないのかもしれません。
掲出歌は、水族館において自分の顔と向き合った場面です。
水族館には水槽のガラスが多数ありますが、この歌においては、割と大きな水槽のガラスなのではないでしょうか。「浮かびゐる無数の貌」とあるため、大きなガラス一面には、水族館に訪れた多くの顔が映っていたのでしょう。また円筒形の水槽であれば、反対側に立っている人々の顔も見えているかもしれません。
そんな「無数の貌」の中に、主体は「わが貌」を見つけてしまうのです。自ら、自分の顔を見ようとしたわけではないでしょうが、水槽に泳ぐ魚たちを見ていたとき、ふとガラス面に自分の顔が映っているのに気がついたのでしょう。
それは、水族館のほの暗い雰囲気、そして「無数の貌」の中のひとつの顔といった、日常で見る自分の顔とはひと味違ったものに映ったのではないでしょうか。
ガラス面に映る顔を通して、主体は何を考えていたのでしょうか。
魚や他人の顔の入り乱れる空間に置かれる「わが貌」。無数の他の存在の中に浮かび上がる「わが貌」は、主体に何かを語りかけていたのかもしれません。
自分一人を映す家の鏡とは違い、水族館のガラス面という場所において映される顔は、他者の存在を通して自らの存在を改めて考える、そんな時間が感じられる一首ではないでしょうか。
