夕立は眼鏡を洗うためにある 楠の枝葉に無数のふるえ
笠木拓『はるかカーテンコールまで』
笠木拓の第一歌集『はるかカーテンコールまで』(2019年)に収められた一首です。
上句の「夕立は眼鏡を洗うためにある」という断定の力強さを感じます。
夕立は夕立としてそこに存在するだけであって、何のためにあるのかを考えたことのある人はあまりいないのではないでしょうか。
動物や植物のため、生命のためなどといったことは容易に思い到りますが、「眼鏡を洗うため」というのはなかなかどうしてそこにたどり着いたのかと考えてしまいます。
そもそも夕立で眼鏡は洗うことができるのでしょうか。確かに雨であるから洗うことはできるでしょうが、きれいに洗えるかというとそうとも限りません。夕立に濡れることによって、逆に洗う前よりも眼鏡が汚れてしまうということだってあるでしょう。
それでも「夕立は眼鏡を洗うためにある」といういい切りが、夕立の存在をよりくきやかにしてくれているように思います。
下句では「楠」が登場しますが、楠も夕立を受けたのでしょう。楠の枝葉は夕立に当たり、雨の重みに揺れ続けていたのだと思います。それを「無数のふるえ」と捉えているのです。
枝葉は数えきれないくらい茂っていたのでしょう。そこに無数の雨粒が落ちてくる、そして無数の枝葉が濡れ、それは無数のふるえとなって、夕立の景を象っていたのだと思います。
ここで上句に戻って、「眼鏡を洗うため」を見てみると、なぜ眼鏡を洗うのかということに目がいきます。眼鏡を洗うには眼鏡を外すのだと思いますが、眼鏡を外したのは、眼鏡を外したい何かがあったのかもしれません。
それとも眼鏡を外さず、眼鏡をかけたまま夕立を顔に受けていたのかもしれません。雨に打たれるままに顔を雨に向けている、そんな情景とも採ってもいいかもしれません。
眼鏡を外すにしても、眼鏡をかけたままにしても、どちらにしても視界はクリアではなくなっている状況でしょう。視界がクリアでない状況において、「無数のふるえ」は視覚としてよりも聴覚として主体に伝わってきたのかもしれません。
夕立の湿りと音、そして枝葉の揺れやふるえ、それらが一体となった景の奥深さと、「眼鏡を洗うため」からさまざまに連想を広げていくことができる、そんな歌なのではないでしょうか。