窓の外には観覧車まわってもまわってもまた来るのがおれだ
虫武一俊『羽虫群』
虫武一俊の第一歌集『羽虫群』(2016年)に収められた一首です。
建物の中から、窓越しに外を眺めている場面でしょうか。視界には、観覧車が回る様子が映っています。
通常、観覧車はさまざまな人たちを乗せて一周し、また別の人たちを乗せて一周し、それをゴンドラの数だけ途切れることなく繰り返していく乗り物です。
しかし、掲出歌では、そんな通常の観覧車のイメージからは離れた観覧車が登場します。
「まわってもまわっても来るのがおれだ」という表現から、観覧車に乗っているのは「おれ」であり、「おれ」ばかりが観覧車に乗り降りしているイメージが浮かび上がってくるのではないでしょうか。
この「おれ」は観覧車を見ている者と同じ人物と捉えておきたいと思います。窓越しに観覧車を見ているはずの「おれ」が、同時に観覧車に乗っている状況であり、現実というよりも、「おれ」の心境がそのような状況を生み出していると考えた方がいいように感じます。
観覧車が回って、誰が降りてくるのか期待しながら待っていると、降りてきたのは何と「おれ」自身であるというのは、うれしいというのではなく、かなしいような、怖いような印象を読み手にもたらすのではないでしょうか。「まわっても」の繰り返し、「また」の強調が、より一層そのように感じさせるのではないかと思います。
ここでは三句以降を観覧車と結びつけて読みましたが、「まわってもまわっても来るのがおれだ」は、観覧車が回る様子と直接的に結びつけない読み方もあると思います。
「まわってもまわっても」はもちろん観覧車の回るイメージから導き出されたものですが、自分の頭の中の思考が「まわってもまわっても」と捉えてもいいかもしれません。何か考えごとがあって、色々と考えているのだけれど、ぐるぐると巡ってくるのは結局「おれ」であるという読み方です。この場合、思考しているけれど、何も進展せず、まるで観覧車のように同じところをぐるぐると思考の繰り返しを行っているという感じではないでしょうか。
「おれ」が観覧車に乗り降りしていると捉えるか、あるいは「おれ」の思考のぐるぐる感と捉えるか、いずれにしても観覧車が回るイメージと重なるでしょう。あるいは両方の捉え方を重ねあわせて読むのもいいかもしれません。その方が広がりが出るようにも思います。
難しい言葉は使われていない歌ですが、一旦読むとさまざまに考えさせられる一首ではないでしょうか。