思い出に見張られている宵のくち舟のかたちのパンを購う
榊原紘『悪友』
榊原紘の第一歌集『悪友』(2020年)に収められた一首です。
パンは本当にさまざまな種類がありますが、そのパンを特徴づけるとき、大きく二つあるように思います。一つは”味”で区別する方法、もう一つは”かたち”で区別する方法です。
前者は、あんぱん、カレーパン、ソーセージパンといった味や具材で特徴づける方法です。後者は、丸いパン、三角形のパン、細長いパンなど、その形状で特徴づけるやり方です。
掲出歌の「舟のかたちのパン」は、後者による方法でどのようなパンであるかを伝えてくれているでしょう。
それにしても「舟のかたち」とは、いったいどんなかたちでしょうか。帆がある立体的なものではなく、どちらかというと平べったいパンを想像します。パンの一部が少し尖っていて、舳先のイメージが浮かぶかたちかもしれません。もちろんこの「舟のかたち」は、詳細までが示されているのではないので、読み手が自由に想像していいと思います。
さて、そんな「舟のかたちのパン」を買ったのですが、それを買ったときが「思い出に見張られている宵のくち」だったのです。
「思い出に見張られている」という表現がこの歌のポイントでもあるのでしょうが、どのように読めばいいのでしょうか。
通常「見張られている」というとき、それは”現在”の誰かや何かによって監視されていることを指しますが、ここでは「思い出」とあるので”過去”が関わってくるのでしょう。もちろん「思い出」を記憶している自分、また感じている自分は”現在”にいるわけですが、「思い出」の中身は”過去”の影響を受けており、今この瞬間だけの何かに見張られているのではなく、時間的に少し長いスパンをもって見張られているということなのかもしれません。
つまり「思い出」が色々な縛りとなって、今の自分の言動に制約を与えているといったことが示されているのではないでしょうか。それは少し息の詰まるような状況なのかもしれないでしょう。
「舟のかたちのパン」を買うことは、このような息の詰まる状況から抜け出すためのひとつの行為を表しているのではないかと思います。旅立ちをイメージさせる「舟」、そのかたちのパンであるからこそ、そのように思うのです。パンを買うという、日常におけるささやかな行為においてだからこそ、より一層「舟のかたち」を選ぶことが、小さな決意のようにも感じられます。
いつまでも「思い出」に縛られているわけにはいかず、新たな方向へ進もうとする主体の姿が表現された一首なのではないでしょうか。